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Shota Maehara's Blog

神の愛について―なぜ人は謙虚であるべきなのか

Posted by Shota Maehara : 6月 19, 2009

washing道徳において、人は謙虚であるべきだと説かれている。謙虚さとは、他人に対して自らへりくだること、すなわち他者を尊重することを意味する。でも、考えてみればこの教えはこのままでは極めて根拠が薄い。そのため、社会では個人の裁量に任されていて、謙虚にする人はするし、そうしない人はしない。だから、現代の人間関係は一向に円滑になっていかない。ここに私たちの社会の混迷の一端があるといっても過言ではない。

では、なぜ現代は心の謙虚さを失ったのだろうか。この問題を私自身の経験を通して考えてみたい。私自身ものを書く必要がら、毎日多くの書物を読み、知識を吸収し、思考する。そして、世の中を批判的に見て、一般的な通念を疑うことを常とする。そのため、だんだん不平家になり、世の中を儚んだりする。酷い場合は、自分だけが真理を手にし、一番偉くなったように思えてくる時すらある。

しかし、これは言うまでもなく大きな間違いである。まさに傲慢という病にかかっている。あなたはジョージ・ルーカスの『スターウォーズ』という映画をご覧になったことはあるだろうか。その第二作目「帝国の逆襲」で、私のお気に入りの登場人物ジェダイマスター、ヨーダが次のような会話をする重要なシーンがある。

フォースの師であるオビワンを失った主人公ルークは、導かれてこのヨーダのもとに教えを乞うためにやってくる。惑星に降り立ったルークは、彼を探し当てるがはじめはそのみすぼらしさに半信半疑になる。そして、「あなたがあの偉大な戦士マスター・ヨーダですか」と聞くと、ヨーダは次のように答える―「「偉大な戦士」か、でも人は戦いで偉くはならない」。おそらく、ここでヨーダは、強いフォースを持ち、戦士になることは重要だが、まず心を学ばなければ、それを偉大さとはき違え人は傲慢になる。その結果、いつか道を踏み外し、ダークサイド(暗黒の支配)に身を委ねてしまうと言いたかったのだろう。

同様にどんな分野であれ、学びつづけていく人はまず心を学ばなければならない。学んでいけば学んでいくほど傲慢になり、人格を歪めていくくらいなら、はじめから学ばぬ方が良い。なぜなら、知識があって高慢な人と、知識がなくても満たされ心穏やかな人と比べれば、後者の方が人々を元気づけたり、良い感化を与えることによって、世の中を明るくしてくれるからである。私は今の日本が小利口な知識人の悪の支配に染まってしまっているように思えてならない。

それならば、一体我々はどうするべきなのだろうか。私が思うに、他人への批判の背後にあるのは悪意や嫉妬ではないだろうか。裏を返せば、自分が偉くなりたい、中心に居座りたいという虚栄心ではないだろうか。それとは逆に、本当に重要なのはむしろ「誉める」ことではないだろうか。なぜなら、誉めることの背後にあるのは、人に対する温か味であり、愛情だからである。愛なくして、子供や他人の欠点ではなく、長所を認め、伸ばしてあげようという気になるだろうか。

また誉めるという行為が大切なのは、自分が謙虚な姿勢でなければ決してすることができないからである。自分が謙(へりくだ)って、すべての他人を自分より優れたものと見なし得てはじめて人は誉めることができる。誉めることはすなわち愛であり、そして愛とはすなわち謙譲なのである。

このことを教えてくれるのは新約聖書に描かれた神の愛である。神は人間を愛するがゆえに、自分の独り子を地上に遣わした。そのナザレのイエスは、高慢になるどころか、弟子たちの足を自ら洗い、最後には人々の罪を背負って十字架に架けられた。この神の愛、アガペー(無償の愛)を想う時、神ですら人間に対して謙られたのだから、人間が他人に対して謙れない理由が何処にあるだろうか。

最後の晩餐でイエスは弟子たちにこう言い残している。私があなた方を許したように、あなた方も互いに許し合いなさし。そして、私があなた方をこれほどまでに愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい、と。この最後の教えこそは、閉塞感に覆われた世の中で、その雲間を突き抜けて地上に差し込む一条の光ではないだろうか。愛という泉から湧き出るように、謙虚に、許し合い、誉め合う社会へと一人でも多くの人が立ち戻ることを心から祈りたい。

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コメント / トラックバック4件 to “神の愛について―なぜ人は謙虚であるべきなのか”

  1. Miho said

    秋月さん。こんにちは。暑いですね、お元気ですか。キリスト教に関するエッセイを興味深く読ませていただいています。外国にいると宗教はごく自然なテーマですが、そちらの日本ではどうなんでしょうか。まだまだ特殊なものとして扱われているのかもしれませんね。でも、やはり芸術、宗教、哲学はそれぞれ深く絡み合っています。だから、本質的に物事を考える人間にとって、これらのテーマを避けることはできないでしょう。今後も是非、思索を深めて行って欲しいなと期待しています♪

    • akizukiseijin said

      Mihoさん。元気そうでとてもうれしいです。いや、そうですね。ヘーゲルいわく、芸術と宗教と哲学は密接に絡まっていますね。私も同感です。私も常に根本に返って考え直してみたい。そう思う今日この頃です。

  2. 摩子 said

    なんかまるで自分のことを言われているかのような文章です。「謙虚」か難しいよね。やっぱり宗教的バックグランドがある人と無い人とではライフスタイルから何からぜんぜん違いますよね。見習いたいなぁ♪♪♪

    • akizukiseijin said

      いや、摩子さんはとっても知的だし、それに謙虚ですよ。もう充分なくらいにね。これは何より自分の話だから、自省として書いたんです。懺悔の文章と言ってもいいかもしれません(汗)。

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