I am the vine; you are the branches

Shota Maehara's Blog

新約聖書のパラドックス―なぜ貧しき人たちは幸いなのか

Posted by Shota Maehara : 6月 13, 2009

img_1092910_56143460_0現代人は老いも若きも、男も女も、豊かで安定した生活を追い求める。無論それ自体は間違っていないし、私とて同様である。ただし、そうした現代の暗黙の価値基準に執着するあまりに、そこから毀れ堕ちた人を蔑む社会になってしまってはいないだろうか。またそのコインの表と裏である同情からもたらされる救済措置に果たしてどんな効果があるのだろうか。私たちが市民として成熟していくためには、もう少し違った考え方が必要とされているように思われるのだ。

私が聖書を読んで間もない頃、最初に興味深いと感じたのは次のような逆説(paradox)だった。すなわち、生活に困窮し打ちひしがれた人々を憐れんではいけない。なぜなら彼らは私たちより優れた宝を一つ持っているから。それは言うなれば、最底辺に立つ者が社会を見上げる時の視線であり、感性の鋭さである。例えば、人が人を踏む時、踏んだ方は痛みを感じない。それを感じるのは踏まれて苦しんでいる者の方である。そこに社会の弱者への偏見や無理解の源泉があると同時に、なぜイエス・キリストはこの貧しき人々にだけ真理を語られたのかの秘密がある。ここで新約聖書「マタイによる福音書」から次の有名な一節を引用しよう。

心の貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。
柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。
義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。
あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。
心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。
平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。
義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
…。(※)

上記の引用と同様に、聖書の中にある「富んだ者が神の国にはいるのは、ラクダが針の穴を通るよりも難しい」というイエスの言葉は、単に社会的弱者の肩を持っている社会改革者という立場で解釈してはならない。そこには、弱者の繊細な感性のみが知り得る人間と社会の実相があり、それゆえ神の言葉に対して彼らの耳がつねに開かれていることを表現しているのだと見なすべきである。

私自身自らの体験からこのことの恐ろしさをしばしば痛感させられている。それは自分が方向性を見失い、自問自答を繰り返している時には逆に感性も研ぎ澄まされ、あらゆる景色や人の言葉が身にしみて感じられるのに、いったん安定した生活や幸せを手にしてしまうとすっかりそれを忘れ去ってしまい、言葉も心に響かなくなるからだ。

そのことが最も端的に表れるのは私にとって詩を書く瞬間である。以前は、あんなにも深く心に突き刺さってきた風景や言葉たちが、もはや心の網に引っ掛かってこないのである。このときほど私は何かを得たとき、同時に何かを失うということに愕然とする瞬間はない。

かつて腐敗しかかっていたユダヤ人社会の中で、小さく貧しくされた者とともに語らいながら、イエスはかくして宗教改革家であると同時に社会改革家になったのである。この両義性にこそ注目すべきである。そこにはそうでなくてはならない必然性があった。彼は自らも傷ついた者が持つ眼差しと感性を知った上で、真理を語り、社会を改革したのである。だからこそ、彼の言葉は貧困格差や抑圧的な権力社会への痛烈な批判力を永遠に失わない。

まさしく支配者が自らの富と権力を誇った瞬間に、真理は、知らず知らずのうちに被支配者の側に移動してしまうのである。それは別に同情とかヒューマニズムからではなく、哲学における弁証法的な問題としてそうなのである。これは政治や経済や社会に当てはまるばかりでなく、我々個々人のケースにも当てはまるだろう。

このことを踏まえたとき、我々はもっと他者に対して謙虚であらねばならないのではないかと、そう思わずにはいられない。なぜなら私たちが優位だと思っているまさにその瞬間に、その位置が逆転して、本当に大切な幸せの青い鳥を見失ってしまうかもしれないからである。

【注記】

※日本聖書協会『新約聖書』(1965、10頁)―マタイによる福音書、第5節、第3節~10節。

広告

コメント / トラックバック2件 to “新約聖書のパラドックス―なぜ貧しき人たちは幸いなのか”

  1. そうですね。悠々自適な早期リタイアとか。
    ギラつきも最近無くなってきたし 爆

    グイグイ人を押しのけて来ると、ある時点で反動が出て、まるで小学校の道徳?のようなベタな考え方をするようになります(タマに)

    • akizukiseijin said

      dbadminさん。コメントありがとうございます。いや、共感してもらえて嬉しいです。日本の場合、明治以来の立身出世主義が蔓延っているから、ある意味で馬車馬のように働くことを美徳にしている風がある。それはいまだ全然変わっていないですよね。不況になった分、いい転機になるかと思ったら、まだまだ失業者を偏見の目で見たりする。そこが、西欧のキリスト教のプロテスタンティズムの勤労精神と同じようでいて微妙に異なる点だと思います。申し訳ありませんが、これらの点に関してあまりまだ考えがまとまっていないものでアットランダムに書いてしまいました。でも、兄さんは良い意味で、日本人ぽくないですよね。こういう方たちがこれからの日本を引っ張って行ってくれたら、もう少しこの国は良くなるんだがな、なんて少し偉そうな感想を持ったりしています。またそちらのブログに遊びに行かせていただきます。仕事も大変でしょうが、兄さんが素敵な夏を過ごせるようにお祈りしております!!!

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中