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Shota Maehara's Blog

なぜ聖書は永遠に読み継がれるのか―『カラマーゾフの兄弟』から『塩狩峠』へ

Posted by Shota Maehara : 5月 16, 2009

1.ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』の可能性の中心を読む

ここ数年私の父は代表的な文学作品を立て続けに読んでいる。彼が作品を読み終わるたびに、私達はその本について批評し合うということを極自然に行ってきた。ある日、彼が19世紀ロシアの文豪ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を読んでいるという話になったときに、こんな会話のやりとりをした。

父:「いまだいたい3分の2くらいまで読み終えたけど、一体このカラマーゾフ家の父親殺しの犯人は誰なんだろう。」
私:「もしかしてこの人かもという予想はできるでしょう?」
父:「うん、とりあえず長男のドミトリーに容疑がかけられてるけど、3兄弟のうち誰がやってもおかしくない。皆が父親を憎んでいたからね。でも、真犯人は3兄弟の他にいるんじゃないかって気もするんだ。」
私:「例えば誰?」
父:「あのスメルジャコフが怪しいね。彼は同じ父親の腹違い子なのに息子と認めてもらえず使用人として扱われてきたんだから。」
私:「そうだ、当たりだ。犯人はそのスメルジャコフだ。彼が一家の主人フョードル殺害の犯人だよ。」
父:「え、やっぱりそうか。」

いきなりここでネタばれしてしまった父の微妙な表情。だがなおも私は会話を続けた。

私:「うん、でも誰が殺してもおかしくなかったよね。実際、スメルジャコフは次男イワンに向って、あなたがそう望んだから自分が代わりに殺したのだって語るセリフがあるよね。確かにある意味ではこの3兄弟全員が犯人だった。たまたまそれを実行したのがスメルジャコフだったに過ぎないのさ。」
父:「すべての人に責任があるっていうこと?」
私:「そう刑法上の責任ではなく、倫理的な形而上学的な責任がね。」
父:「それはどういうこと?」
私:「例えば、戦後多くのナチス協力者がニュルンベルク裁判で絞首刑にされた。ただ自らはユダヤ人迫害や殺害に手を染めなかったドイツ人も何らかの心の負い目を感じざるを得なかった。いうなれば民族全体がある種の罪責感を抱えていた訳だね。それが嘘偽らざるドイツ人の戦後の姿だった。」
父:「なるほどね。よく分かるよ。戦後日本国民もある意味同じ罪責感に囚われていたからね。」

少し沈黙の時間が流れた。父はこんな話になろうとは思ってもいなかったようだった。やがて私は核心的な話を切り出した。

私:「ドストエフスキーの文学が現代の予言書と呼ばれている所以が分かったかなぁ。この物語では、我々の心の中に潜む何かがある一人をして「父」=「神」殺しを犯させた。ただ誰しも俺が手を下していたかもしれないと自分を疑ってしまう。まさしく倫理的な、形而上学的な罪責感に囚われてしまう。そして、これこそ現代におけるアメリカの9.11同時多発テロや日本の派遣労働者の若者が起こした秋葉原連続殺人事件に遭遇して、自分もそうなることを望んだと心のどこかで思ってしまう瞬間なんだ。だってこの世の中はあまりに不公平じゃないか、と。」
父:「つまり、このテーマはまさしく現代社会の問題だということ?」
私:「そう、しかもそれはたんに対岸の火事ではないし、社会の客観的な真理の話じゃない。もっと自分自身に問うべき問題だ。」
父:「一体何だっていうの?」
私:「要するに、真犯人スメルジャコフの正体はこの私だということ。いいかえればこれを読んだあなたがスメルジャコフの正体だったんだ。」

2.三浦綾子『塩狩峠』におけるキリスト教の核心

こうした会話のやりとりをした後で、私は自分自身がこう考えるきっかけをくれた読書体験のことを語り始めた。それは作家の三浦綾子の『塩狩峠』におけるまさに彼女自身の信仰告白との呼べる印象的なシーンだった。この作品は北海道の塩狩峠が舞台で駅員で敬虔なクリスチャンである永野信夫が自らの命を犠牲にして、乗客の命を救った実話をもとにしている。このシーンはまだ信仰に入る前の信夫がある伝道師から初めてキリストの教えの核心を突き付けられる場面だ。

私:「主人公信夫はキリスト教伝道師伊木一馬を自宅に呼んで、イエスこそ人格を超えた神格を備えた存在であることを信じると告白する。無実でありながら十字架に架けられ、しかも自分を殺そうとする人たちのために《父よ、彼らを許し給え、その為す所を知らざればなり》と祈ることができる。この人こそ神の子であると深く感動したんだ。」
父:「それでキリスト教信者になったの?」
私:「いや、まだ。彼は伊木伝道師にこう問われるんだ―《しかしね。君はひとつ忘れていることがある。君はなぜイエスが十字架にかかったかを知っていますか》。それに対して信夫はこの世の罪を背負うためにと答える。そして伊木はこう告げる―《そうです。そのとおりです。しかし永野君、キリストが君のために十字架にかかったということを、いや、十字架につけたのはあなた自身だということを、わかっていますか》と。」

ここで父はコーヒーを入れるために少し休憩をとった。やがて、キッチンから彼が戻ってきて、チョコレートと一緒にブラック・コーヒーを運んできた。それを飲みながら、父は満足そうにして、やがて私の方に向き直った。

父:「それでどうなったの?」
私:「信夫ははじめどうしてもそれが信じられないんだよ。自分はそんなことした覚えはないと言ったら、それじゃあなたはキリストとは何の縁もない人間ですって、ばっさり切り捨てられちゃって。この重要な対話部分を読み上げてみるね―《先生、ぼくは明治の御代の人間です。キリストがはりつけにされたのは、千何百年も前のことではありませんか。どうして明治生まれのぼくが、キリストを十字架にかけたなどと思えるでしょうか》、《そうです。永野君のように考えるのが、普通の考え方ですよ。しかしね、わたしはちがう。何の罪もないイエス・キリストを十字架につけたのは、この自分だと思います。これはね永野君、罪という問題を、自分の問題として知らなければ、わかりようのない問題なんですよ(略)》。」
父:「信夫は自分自身をさほど罪深いとは思っていなかったわけだね。」
私:「そう、でもここからが大切なんだ。キリストの処刑を自らの犯した罪と受け止めることによって、人は時代と空間を超えて、古代のイェルサレムでのイエスの死に立ち合うんだ。そうすることによって、キリストの存在は彼らにとって遠く離れた昔の出来事ではなくて、今・ここで起こっている出来事に変わるんだ。こうして人々がこの出来事に自ら罪びととしての意識を持って同時代性を感じ続けるからこそ、キリスト教の聖書は永遠に生き生きとし、人々に読み継がれていくんだ。」

3.なぜ聖書は永遠に読み継がれるのか

二人の話はとうとう架橋に差し掛かりつつあった。父もだいぶ疲れ始めているので、私はこれまでの話をここでまとめて切り上げようと思った。実際彼の瞼はもう閉じそうになっていて、ゾンビと深夜二人で話しているような孤独な心境だった。

私:「キリスト教は、この罪という概念によって、同時代性=永遠性を獲得したんだ。時空間を超えて、読み手がこの出来事を自分自身の問題として受け止めるからこそ、キリスト教の聖書は永遠に古びることがない。この内(この世)と外(あの世)とを繋ぐ回転扉のような聖書という不思議な書物は後にも先にも現れないだろうな。これこそ人類史上普遍の傑作であり、後のダンテやゲーテ、そしてドストエフスキーに至るまで今日の文学はこの形式を反復しているに過ぎないと言うこともできるからね。」
父:「(半分眠りながら)なんか難しくなってきたね。つまりどういうこと?」
私:「まあ要するにいつも言っていることだよ。つまり、文学であれ歴史であれ本を読むときには、それを単にストーリーや内容を追うものとしてではなく、自分自身だったらどうするかという主体性が大切なんだよ。だってあらゆる偉大な書物はこれはお前のことだよって挑発しているんだからね。その挑戦にどう応答するかが読書の醍醐味じゃないのかな。」

父は眠気で恐ろしい顔になり始めた。何だか心配で話に集中できない。

父:「ああ、自分に置き換えて読めということだね。」
私:「そう。文学でも科学でも、今流行っていることを書くのが真理の探究じゃない。ましてや、終わったことをつらつら書くのが歴史じゃない。むしろ、いま・ここで生きているこの私が、過去や現在そしていまだ来らぬ未来の現実を必然としてではなく、自由として捉えられるか。いいかえれば事後的に固定したものではなく、事前的に変化し得るものとして捉えるかで歴史の見方は大きく違ってきてしまう。もしそう考えられたなら、なぜ、どのようにして、このような現実が生まれたのかを把握した上で、これを変えていくことは可能かと考え、そしてもう一つの現実へ向かって行動していくことができる。あの随分眠そうだけど大丈夫?」
父:「う、うん。でも難しいよね。学校で教わる歴史って昔の話をただ暗記しているだけになりかねないからさぁ。」
私:「確かに我々は歴史というものを過去、現在、未来という連続した直線のように考えがちだけど、しかしキリスト教は「罪」という概念を軸にして、キリストの死を自ら身に引き受けることによって、現代に生きるているはずが何千年前の処刑の場面に一瞬タイムスリップしてしまうんだ。さらに、真のキリスト教徒であれば未来さえもいま・ここと質的に並び立ったものとして眺めることができる。だって、過去が過去として固定されていず、こちらの主体性によって変化するものならば、未来も固定したものではなく、我々の係り方如何によって変化するものとなるはずだからね。キルケゴールはこのように罪を引き受けた瞬間に過去とも未来とも同時代性を感じてしまう時間の係り方を永遠と表現したんだ。」

しばらく沈黙があった。なぜか私の方が取り残された様な妙にシュールな気分を味わう。すると次の一瞬、父は夢の世界からこの世界へ舞い戻ってきて何かしゃべった。

父:「うん・・・そうか。」
「もう少し厳密に言えば、これはキリスト教の中でもさらに新教(プロテスタント)特有の視点であるという気がしてならないよ。なぜなら、カトリックや特にユダヤ教は本質的に過去に現れた救世主(メシア)への繋がりを持ち続けている。それに対して、プロテスタントのエッセンスは本質的に過去ばかりでなく未来へと質的に飛躍(ジャンプ)することによって永遠とかかわることなんだ。いずれにしてもこの時期、信仰者にとって普遍的な倫理(神)は存在するかという宗教改革の問いは、科学実験による普遍的な真理の探究とも並行している。そして同じ時期にこのプロテスタンティズムの倫理が資本主義の精神になったことも忘れてはいけない。確かに資本主義は、お金を今すぐ使ってしまうのではなく、自分や会社の事業拡大のために投資し、未来においてその何倍もの利益を生み出そうとする特徴がある。ただ、これは社会を進歩させもするけど、逆にそれが加速化すれば目先の利益を追求するだけに陥る。この意味で先のウェーバーの表現をもじって言えば、現代はプロテスタンティズムの倫理なき資本主義に陥っている。このまま本当にこの先やれるのか心配だよ。今後は文明史的立場からこの科学と資本主義に立脚した国民国家のゆくえを宗教を軸にして再吟味してみたいと思うんだ。」

気づくともう父はソファで寝入っていた。私の半分ほど残ったコーヒーも冷めてしまっていた。「キリストを殺したのはあなただ」という声だけがいまだ残響のように耳に響いていた。

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