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Shota Maehara's Blog

ハーマン・メルヴィル『白鯨』を読む

Posted by Shota Maehara : 5月 7, 2009

square悲劇的に偉大な人物とはすべて一種病的なものを持つことによって成り立っているものだ。若くして大望を抱く人よ、人間の偉大さとは病にすぎぬのだと記憶されたい。―メルヴィル『白鯨』(阿部知二訳、世界文学大系、筑摩書房、五四頁)

この四方に偏満する民主的尊厳の尽きることのない光源こそは、神自身なのだ。絶対の神こそが、あらゆる民権の中心であり周辺であり、、神の遍在こそが、われわれの神聖なる平等となるのである。―メルヴィル『白鯨』(阿部知二訳、世界文学大系、筑摩書房、七七頁)

1.アメリカ文学のルネッサンス

一八五一年に発表されたハーマン・メルヴィルの『白鯨』は、アメリカに潜む理想と狂気、そしてその無意識(エス)に潜む何かをあたかも精神分析にかけて明るみに出すかの如き傑作である。

そこに描かれる中心的なモティーフはモーヴィ・ディックと呼ばれる巨大な白鯨とかつてその鯨によって自らの片足を奪われたエイハブ船長との復讐劇である。その冷静な殺人鬼にも似た妄念に突き動かされる船長とそれに巻き込まれていく捕鯨船の乗組員との協同と確執そして悲劇が一人のイシュメールという流れ者の船乗りの視点から淡々と描かれていく。

この地の果てに及ぶ航海を共にする我々読者はまた、随所にちりばめられる鯨についての百科全書的な説明、哲学的な語りやセリフ、そして突然演劇が始まる場面に遭遇して面喰ってしまうだろう。これは従来の小説の範疇に収まらない。D.H.ロレンスは『アメリカ文学論』の中で、アメリカのメルヴィルを、ロシアのドストエフスキー同様に、古いヨーロッパの抑圧的な表現空間を打ち破る新たな世紀の文学として位置付けている。

2.宗教と死の欲動

私がこの作品を読んだのは2001年9.11の同時多発テロ以降に、復讐に燃えて、アフガン、イラクへと進行を開始するブッシュ政権に、エイハブ船長の面影を重ねていた頃であった(実はこの時期ロシアとイギリスの間でこの地の覇権をめぐって第一次アフガン戦争があり、小説の中にも「アフガニスタンにおける血なまぐさい戦闘」という新聞記事がある)。なぜならここにはアメリカがその後何度でも繰り返す歴史の反復の原型があると私は認識したからだった。神への信仰のためにメイフラワー号に乗ってアメリカの地に降り立ったピューリタンたちの平等な信仰共同体は、ときに約束の地を知っていると騙る盲目の老人によって崖へと導かれてゆくかの様である。まさに破滅へと。

しかし、崇高な民主主義の理想に燃えるピューリタンたちの信仰共同体として建国されたアメリカがなぜグローバルな平和(パックス・アメリカーナ)をもたらすどころか、冷戦、ベトナム戦争、9.11同時多発テロ、アフガン、イラク戦争、そしてサブプライムショックに至る混乱を世界にもたらし続けるのか。それは単に覇権国家システムの成熟と崩壊という以上の説明を要するのではないだろうか。

このモーヴィ・ディックと呼ばれる白鯨への復讐劇に見事に象徴されているように、アメリカ的な友愛で結ばれた信仰共同体、神の下での民主主義の底にあるのは宗教によって抑圧された様々な人間のリビドーである。例えば無垢であろうとするがゆえに、信者は性的な欲望を無意識の世界に抑圧しなければない。ときにはそれはサタンとなって信者を誘惑する。だが、その中で最も抑圧しなければならないのは、「汝殺すなかれ」という十戒に刻まれた善悪の掟の彼岸にある、死の欲動(人間の攻撃性)である。人間とは他人を殺し得る生き物である。それを罪の観念で蔽い、逆に照射することで神への畏敬の念が生まれるのである。

だから人間は死を恐れつつ、死に魅せられている。本来、死(崇高)という領域へのおそれとおののきがなければ宗教はそもそも存在しない。いまでもユダヤ教における供犠の羊、キリスト教における十字架で磔にされたイエスの死によって、はじめて共同体は死を記憶として共有することによって死後の世界(神)とのつながりを感知する。つまり、様々な宗派が道徳的な仮面の下に抑圧している宗教の宗教性こそこの死の欲動(人間の攻撃性)なのである。まさしくこの作品では、船乗り(人間)/エイハブ(死の欲動)/白鯨(神)という構造の中で、エイハブ船長はこの人間と神の道徳的で安定的な関係を破壊する「他者」(the Other)として現れるのである。ここにこの作品を読み解く最大のポイントがある。

3.文明と宗教の弁証法

晩年フロイトはこの死の欲動を研究し、それが外へ向かえば他者を傷つける攻撃性となり、内に向かえば責め苛まれるような良心の呵責になると考えた。それに基づいて彼は良心(超自我)とは社会の規範を内面化したものではなく、この死の欲動が内向化した結果だというコペルニクス転回を行う。そして、この文脈からフロイトは第二次大戦を前に他国から押し付けられたものとして批判されたドイツのワイマール憲法が実はドイツ人自身の中から、それこそ死の欲動の内向化として生まれたのだと考えて護憲平和を訴え続けた。彼は人々が徐々に人間の攻撃性を自己を抑制する力に変え、文化を発展させていくことに希望を賭けたのである。

だが悲劇的にも、現代文明は国民国家を構成していた諸民族の力が蘇生し、死の欲動がふたたび人々を紛争や経済的混乱へと引き摺り込もうとしている。いまや文明の衝突が叫ばれて久しい。確かに戦争は文明化のプロセスに拍車をかけるきっかけとなることが事実だとしても、その惨禍を座視することはできない。私もまた人類の歴史は文明化のプロセスを辿ることを疑わない。ただし、すべての人々が第三次大戦で滅んだあと永久平和が達成されても意味はない。

今後究極的には世界連邦が達成されるまで、不均等に発展する文明間のバランスを保ち、対立を回避する国際的な枠組みやコンセンサスを創り上げる必要がある。そのためには国家に過度に依存しない市民の分散型コミュニティーを社会の中にいくつも作り上げていくべきだ。フロイトは宗教の社会運動的な側面を軽視したが、トインビーはむしろ宗教を文明の揺籃の場だと述べている。したがって現実的には、新しい文明が生まれるその時まで、現在の資本制経済の功利主義的道徳を批判できるのは、おそらく多かれ少なかれキリスト教的な色彩の強い「奉仕」や「福祉」の精神に基づくもの以外にはあり得ないだろう。

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