I am the vine; you are the branches

Shota Maehara's Blog

働くことは人生の目的か?それとも手段か?

Posted by Shota Maehara : 4月 23, 2009

moderntimes11労働は人生の手段? それとも目的?

河合孝昭

市場原理の暴走に対して歯止めが効かなくなりつつある現代日本においては、「生きるために働いている」のか「働くために生きている」のか、その区別がほとんどつかなくなるほど、生活の糧を得るためになさねばならない労働は苛烈になりつつある。年功序列制度の崩壊と軌を一にして「成果主義」が導入され、私たちは「働かざる者は食うべからず」どころか、それを自明のこととしたうえで、さらに「働くことにおいて成果をあげることのできない者は食うべからず」といった苛酷な要求を否応なく受け入れざるをえないところまで追い込まれつつあるといえよう(ここではひとまず、「正社員」という身分で雇用されている人々を念頭においているが、パート労働者やフリーターも成果主義導入の影響を受けていることは言うまでもない)。

このような状況に対して日本の労働者はどのような反応を示しているであろうか。圧倒的多数の労働者は、程度の差こそあれ、このような状況に順応し、「勝ち組」と「負け組」という単純明快なカテゴリーを想定した上で、自分だけは「勝ち組」に残ろうと汲々としているというのが現状である。この意味で、「日本の労働者が求めるのは公正な競争であって、競争そのものの制限や停止ではない」という熊沢誠氏の指摘はひじょうに説得力がある。

もちろん一方では、「ニート」と呼ばれる、学生でも主婦(主夫)でもなく就労活動も求職活動もしていない一群の人々も存在しているが、全体的にみれば少数派だと考えられるだろう。したがって、多くの労働者は好むと好まざるとにかかわらず、この状況を受け入れ、労働に従事しているという事実そのものに価値を認める労働観によりも、「労働」と「成果」(そして「成果」をめぐる「他者との競争」)の本質的結合が所与の前提であるかのような労働観に傾き、それを内面化しつつあると言えよう。

このように資本主義の黎明期(その時代に人々が想像を絶する不条理な労働を強いられていたことは言うまでもない)に「後退」するかのような勢いで暴走する市場原理を、私たちが違和感を持ちながらも「なんとなく」受け入れてしまうのはなぜだろうか。「食べる」ためには労働環境の変化にも順応していかなければならないということを考慮するだけで、この現象を説明するのに十分なのであろうか。そこにはそもそも「労働」(ここでは生活の糧を得るための「労働」に限定する)という営みに対して、私たちが過度にプラスの価値を付与することによる「ゆがみ」が生じてはいないだろうか。

                                     *
                   
「どうせ働くならば、生き甲斐の伴う仕事を選びたい」という願いを持つことはもっともなことではある。自分の職場を全面的に自己実現の場と自覚している人から、それほどではなくとも自分の仕事にそれなりの「充実感」を感じている人にいたるまで、労働に「生き甲斐」が伴うことを求める人は多いはずである。

しかしそのような願望を抱くことによって、人は容易に労働を「生活」の「手段」ではなく「目的」とみなすことへと導かれることもまた事実であろう。賃金労働に割く時間(それは人間の生涯の大きな部分を占めている)が与える「生き甲斐」を、いったん人生の「目的」とみなしてしまえば、労働の「苦しみ」を「生き甲斐」の一部をなすものとみなすことも容易になり、かくして労働は人間の生活そのもの、生の本質の一部と化す。

しかしながら、今村仁司氏の指摘にもあるように、労働を人間の本質とみなす考え方は近代になって成立した歴史的なものである。労働が人間の本質とみなされることによって、労働の「喜び」や「生き甲斐」もまた、労働に内在する本質的な感情と考えられるようになる。そのような労働観の変質によって、労働の苦痛や、労働環境における支配‐隷属関係が隠蔽されるに至ったのである。今村氏は労働観のこのようなイデオロギー性を鮮やかに抉り出している。

今村氏によれば、近代以前の文明の価値基準は余暇におかれていた。十分な余暇を享受できる人間が一部の特権階級であったという事実を考慮するとしても、自由時間を確保できる生活にプラスの価値を置き、労働に追われ多忙を極める生活にマイナスの価値を置くという考え方は、社会階層の上下を問わず広く共有されていたのである。その意味でも、労働を人間の本質とみなし、そこに生き甲斐が伴うことを理想とする、近代の労働観は決して普遍的なものではない。

もちろん労働に生き甲斐を求める考え方は、一概に否定されるべきではない。しかしこのような考え方が、本来日々の糧を得るための営為であった労働を人生の目的とみなす考え方へと連なっていくならば、不条理なサービス残業や成果主義から生まれる苦痛も、「生き甲斐」の裏面という形で回収され、ひいてはそのような不条理が不条理として認識されないところまで常態化してしまうおそれがあることにも目を向けるべきではないだろうか。

                                      *
                    
誤解を招かないよう述べ添えておきたいのだが、私は何も「労働にプラスの価値を置いてはいけない」と言っているのではない。職場を自己実現の場とみなしている人々の労働観を否定するつもりはまったくない。しかし、「労働」にあまりに多くのものを要求することによって、「労働は生命を維持するために強いられる受動的なものでもある」という側面が忘却されることに対しては危惧を抱かずにはいられない。

成果主義に関して言えば、成果(それを判定する基準がきわめて曖昧であることは措くとしても)を挙げた者が報われることによって、成果を挙げられなかった者との差別化がはかられるべきだという考え方は、他者からの承認を求めようとする人間の本性を考えるとき、なるほど単純に否定できない側面をもっている。しかし成果をあげた者も成果をあげられなかった者も、自己の生存を賭して「労働」したのである。その一事をもって、労働という営みに従事した者を同等に評価するという姿勢が、(もちろんそこから生じる不利益も比較考量したうえで)やはり基本にあるべきではないかと私には思われる。

参考文献
今村仁司『近代の労働観』岩波書店1998年
熊沢誠『能力主義と企業社会』岩波書店1997年

(掲載元:早稲田大学交域哲学研究所⇒ http://www.waseda.jp/prj-iip/th01_03.html

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中