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Shota Maehara's Blog

現代日本におけるスポーツの役割―WBCを顧みつつ

Posted by Shota Maehara : 3月 25, 2009

今、日本の言論空間で発言している方は皆それぞれ優秀な方たちだと思います。それは彼らが各界で成功を収められた人物であるということによってすでに裏書きされています。ただ、人々を引っ張っていくような強い訴求力を持つまでには至っていない。それは時代状況もありますが、やはり社会全体の大きな物語を紡ぐのを避けているからです。もちろん実用的な話も大切、でも一見非実用的に見えても人間を形作る大切なものはありますね。宗教などはその典型です。いま、日本に伝統的な宗教と呼べるものがあれば、人びとの孤独や不安をかなりの部分癒し得たであろうと思います。人間はパンなくしては生きられないとしても、けっしてそれだけで生きられる存在ではありません。今回のWBCのサムライジャパンの活躍は、まさしく今の混迷する日本にとってそういうかつての宗教的な役割を果たしたと言えるのではないでしょうか。

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コメント / トラックバック4件 to “現代日本におけるスポーツの役割―WBCを顧みつつ”

  1. ルサンチマン+マイナス思考な空気の連鎖。マイナス扇動。。。
    自分も、ふと気付くと無意識にこんなマイナスコメントを 汗
    怖い。

    も一つ。別のブロガーの方のエントリーで
    「韓国と日本が様々な面で協力しあえば強力なのに」

    歴史背景認識のない世代からはこんな屈託の無い意見もあり、自分は あぁ、なるほどなーと、感心しきりでした。

  2. akizukiseijin said

    dbadminさんへ。「我々はまだアジアをよく知らない。」
    戦後日本はアジアと本当の意味で向き合ってこなかった。これはやっぱり事実でしょう。それは私自身がいつも痛感していることでもあります。その結果、日本は一体どの程度までアジアであり、どの程度まで西洋的であり、どの程度まで独自な存在なのかが見えない。それは日本という国をどうしていくかというアイデンティティの問題にかかわるだけに重要ですね。今後は少子高齢化に伴って、アジアからの移住者や外国人労働者が多く入ってきます。いや、実はもうすでに始まっています。例えば、中国、韓国、フィリピン、ブラジル、イランなどの多様な文化とどう折り合いをつけていくのか。これまでの在日やフィリピーナの問題に加えて、21世紀の日本は多元的な社会をつくっていけるのでしょうか。国民の意識を変えていく試みが必要でしょうね。

  3. あいやお伺いせずスマソー!軽量化に苦労した甲斐あってヨカター!

    で、件について、言われて見れば、

    確かに【ウチはアジアだ!】という印象が希薄ですね。
    他のアジア諸国は大概、独自さ・らしさ のほうが目立つし

    秋月さんのレスが無ければ、戦後生まれの日本人は
    みな(自分も)欧米人だ 位の意識なんだろうなとも思います。
    それを取捨したから先進国になれた気もしますが。

    文化がある程度円熟した後は、節目節目で柔軟さが求められるのですね。
    でまさにその節目を迎えているが、殆どそこには目が行かないという。

    切迫した他の緊急案件を差し置いてでも先ず! といった感じは無いですが、
    全く意識しないのはマズい流れなんだな と思いました。

  4. akizukiseijin said

    dbadminさん。コメントありがとうございます。いつもいつも兄さんの頭の柔らかさには驚かされます。まったくおっしゃる通りだなと思います。

    私は、イギリスと日本の比較史を通して、世界資本主義の中で、一人の国民として文明を成熟させていく方法はないかと模索しております。それは政治、経済、社会、技術、文化、など様々な論点を含んでいますが、とりわけ「教育」こそが文明に至る最良の方法であると考えています。今日世界を見渡しても、識字率の高い国で貧困国は存在しません。その逆のケースは多くあります。

    しかし残念ながら、この分野こそ現在グローバル資本主義のもとで民営化の影響を強く受けています。なかでも特に大学改革の下での知のあり方に疑問を持っています。具体的に言えば、成果主義が学問の世界にも入り込んで、長いスパンでの研究ができなくなりつつあることです。

    また、人間にとって本当に重要なことが即、お金儲けに繋がるはずがないという簡単な事実が忘れられがちになっています。それゆえに学問には学問の別の基準が必要なはずなのですが、この国ではちゃんとしたレフェリーがいないために学問と商売が曖昧にされつつあります。要するに小中高大を含めて、教育という分野を産業に組み込む際には、ちゃんとした線引きが必要です。

    1970年に哲学者のイヴァン・イリイチは、社会がますます学校化されていく現状に警鐘を鳴らしました。知識と産業が結びつくことによって、人々の学習能力を奪い、あくなき消費への欲望を植え付けられるからです。私なりに言えば、今の社会にうまく適応する術(すべ)のみをすり込んでいるだけなのではないか。むしろ、人々がより良い明日をめざして社会を変革していくために必要な批判意識を根こぎにしてしまっているように見えます。

    究極的には医療や教育は、生涯病院や学校に掛かかり続けるのではなく、自分の足でしっかり立っていけることを目指すべきです。つまり、病院の目的は病院の廃止であり、学校の目的は学校の廃止なのです。それらは、本当に困った時だけ社会にあればよいのです。今現在は過剰にサービスが供給されているかまったく不足しているかの二つに引き裂かれています。

    教育を変革することは社会を変革することである。いや知識資本主義の時代には、「革命」であるとすら考えています。いずれこの点にかんして、一著をものしたいと予定しております。

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