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Shota Maehara's Blog

隣人愛のすゝめ―地域の共生を超えて

Posted by Shota Maehara : 12月 27, 2008

現代日本では、社会の紐帯が失われ、格差が広がり、犯罪が頻発したために、地域再生、共生、絆を大切にしようという意見や取組みを目にすることが多い。他人に対する思いやりやコミュニケーションが希薄になったことが現代社会の危機の原因である。ゆえに、我々は他者に対する共感を取り戻さねばならないと。このメディア受けしそうな意見は結局身の周りの人から大事にしましょうという隣人愛の現代版に他ならない。

しかし、隣人愛とは何なのであろうか。また、そもそも隣人とは一体誰を指す言葉なのであろうか。私たちは改めてこの問いに立ち止まってみなければならない。イエスが隣人愛を説いた時、それは身の回りの家族や友人を大切にしようという道徳を否定するものであった。それは、自分の狭い範囲の知人への思いやりが、かえって本当に意味で苦しんでいる他者への共感を妨げることにもなりかねないからである。例えば、他国で飛行機が墜落したとき、乗客に日本人客は含まれていなかったという放送にこの事実が象徴的に表れている。

ルカ福音書には、隣人愛をめぐって宗教を説くイエスと道徳に終始する律法学者との興味深い対話がある。そこで隣人を自分自身のように愛しなさいという教えを受けて、「では、私の隣人とは誰ですか」と律法学者はイエスに尋ねる。するとイエスは善きサマリア人の話を例にとって示される。エルサレムからエリコへ下って行く途中、追剥にあって道端に倒れている人がいた。司祭やレビ人が通りかかったが彼らは見て見ぬふりをして行ってしまった。やがて旅の途中であったサマリア人がその人を見て憐れに思い、近寄って傷の手当をし、ロバの背に乗せて宿屋まで連れて行く。そして主人に彼を介抱してくれるように銀貨二枚を置いていった。

かくして「この三人の中で、誰が追剥に襲われた人の隣人になったと思うか」とイエスは問いかける。すると律法学者は「その人を助けた人です」と答える。イエスは「あなたも行って同じようにしなさい」と仰られる。ここに示されている教訓は、隣人愛とは隣人だから愛するのではなく、愛することによって隣人になるという逆説なのだ。それは狭い共感の共同体や村意識を越えて、グローバルなものになり得る。ここに道徳と宗教の明確な違いが存するのである。

二一世紀に入って、日本は経済のグローバル化に伴って外国人労働者や移住者を多く受け入れる時代になる。その時地域主義や共同体の道徳の再建だけで果たしてやれるだろうか。むしろ地域主義の行き過ぎは、地域の格差を助長し、ナショナルな問題への没関心を引き起こし、狭い村意識から生じる新たな差別を生み出しかねない。我々は決して偏狭な共同体論やナショナリズムへ逆戻りしてはならない。それを防ぐためにも今後多様化する価値観の世の中で、普遍的に通用する隣人愛をいまこそ我々は見出す必要があるのではないだろうか。

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コメント / トラックバック1件 to “隣人愛のすゝめ―地域の共生を超えて”

  1. […] もしある人が、そういった観念をいだいて、自分の隣人はだれなのかを問うならば、その人にとって、パリサイ人に対するキリストの答えは全く異常としか思われないような返答をするのである。…すなわち、キリストは憐れみ深いサマリア人の譬えを語り給うた後に、パリサイ人に問い給う(ルカ一〇の三六)。「この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか」と。そしてパリサイ人は「正しく」答えた。「その人に慈悲深い行いをした人です」と。その意味はこうである。…すなわち、「その人に対してわたしが義務を負っている人、その人が私の隣人なのであり、わたしが自分の義務を果たすならば、そのときわたしは自らがその人の隣人であることを示すのである」と。 […]

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