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Shota Maehara's Blog

キリスト教の根源―ヨブ記論

Posted by Shota Maehara : 12月 15, 2008

もし、キリスト教とは何か、宗教とは何かと問い尋ねる人があれば、旧約聖書のヨブ記を紐解くべきである。ヨブ記は神学的、哲学的、文学的に様々な論点を含んでいる作品であるが、中心となるモティーフは一貫している。すなわち、「神がいるならば、なぜ正しい人が苦しまねばならないのか」という神義論の問いである。

ヨブはウツと呼ばれる地に住む敬虔な信者で、子宝や財産に恵まれ幸せに暮らしていた。ところがある日、神のもとに現れたサタンが、彼からすべてを取り去ってしまえば信仰も消えうせるだろうと唆(そそのか)した。神はヨブの信仰を試すために命を取らないことを条件にそれを許した。サタンによって、ヨブはすべての子供たちと家畜を失ってしまうが、神に対する忠誠を曲げなかった。だが、ふたたびサタンは神の許しを得て、ヨブの体中を悪性の腫瘍によって苦しめた。そしてついにヨブは灰の中から立ち上がり神への呪詛を口にするのだった。

私の生まれた日は滅びうせよ。
「男の子が胎に宿った。」と言ったその夜も。
その日はやみになれ。
神もその日を顧みるな。
光もその上を照らすな。
.…
なぜ、苦しむ者に光が与えられ、
心の痛んだ者にいのちが与えられるのだろう。
死を待ち望んでも、死は来ない。

私には安らぎもなく、
休みもなく、いこいもなく、
心はかき乱されている。※1

この光景に愕然としたヨブの三人の友人たちは次々に反論する。良い行いをすれば神に祝福され、何らかの原因があるからこそ罰せられる。こうした因果応報の考えに基づき、エリファズはヨブが神の教えに背くようなことをしでかしたのではないかと責め立てる。それなのに、神への呪詛を口にするとは何たることだと。神は完全で、人間は不完全なのだから、自らの過ちを悔い改めるべきであると主張するのだった。その友人の一人エリファズの弁論を引用しよう。


さあ思い出せ。
だれが罪がないのに滅びた者があるか。
どこに正しい人で絶たれた者があるか。
私の見るところでは、不幸を耕し、
害毒を蒔く者が、それを刈り取るのだ。
彼らは神のいぶきによって滅び、
その怒りの息によって消えうせる。※2

それに対し、こうした友の批判は苦しむヨブの耳には届かない。むしろ彼は次のように友人たちに弁論する。


もし、あなたがたが、
事の原因をわたしのうちに見つけて、
「彼をどのようにして追いつめようか。」
と言うなら、
あなた方は剣を恐れよ。
その剣は刑罰の憤りだから。
これによって、あなたあがたは
さばきのあることを知るだろう。※3

なぜあなた方は私にその責めを負わせようとばかりするのか。なぜなら、どんなに我が身を振り返ってみても、ヨブは神の教えに背くことなどはした覚えがない。それなのになぜ私がこれほど苦しまねばならないのか。彼の懐疑はより本質的である。つまり、自分はできるだけ正しく生きてきた。そして、ある日突然不幸に見舞われた。もし、神がいるなら、なぜ正しき人が罰せられ、神に逆らう人が幸せに暮らしているのか。一体、神の義は何処にあるのか。

やがて、神が嵐の中から現れる。神はヨブの激しい言葉を非難し、人間の卑小さを強調する―「知識もなく言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか」。なおも神はヨブに次のように迫る。


さあ、あなたは勇士のように腰に帯を締めよ。
私はあなたに尋ねる。私に示せ。
あなたはわたしのさばきを無効にするつもりか。
自分を義とするために、わたしを罪に定めるのか。
あなたには神のような腕があるのか。
神のような声で雷鳴をとどろき渡せるのか。※4

人間は知識もないのに、神の御心や摂理を推し量ることなどできはしない。そして何よりも、自分に非がないないからといって、神に非があるなどと疑うのか。それそこ人間の傲岸不遜な振る舞いであると。

ヨブは自らの小ささに恐れ入り、今までの言動を恥じる。

あなたには、すべてができること、
あなたは、どんな計画も成し遂げられることを、
私は知りました。
知識もなくて、摂理を覆い隠した者は、
だれでしょう。
まことに、私は、
自分で悟りえないことを告げました。
自分でも知りえない不思議を。
どうか聞いてください。私が申し上げます。
私はあなたにお尋ねします。
私にお示しください。
私はあなたのうわさを耳で聞いていました。
しかし、今、この目であなたを見ました。
それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます。※5

かくしてこの物語は神がヨブを諌め、友人の言を正しいと見なして祝福して終わるのかと思われた。ヨブは愚かにも、人間の浅はかな知恵で、全能の神を非難したからである。

しかし、この物語の結末は、逆の展開を迎える。実は、神が最も怒っていたのは、ヨブではなく、その友人たちの言動に対してであったのだ。その象徴的ともいえるのが、ヨブに語り終えて後その友人のエリファズに向けて語られた神の次の言葉である。


私の怒りはあなたとあなたのふたりの友に向かって燃える。
それは、あなたがわたしについて真実を語らず、わたしのしもべヨブのようではなかったからだ。
今、あなたがたは雄牛七頭、雄羊七頭を取って、わたしのしもべヨブのところに行き、
あなたがたにために全焼のいけにえをささげよ。
わたしのしもべヨブはあなたがたのために祈ろう。
わたしは彼を受け入れるので、わたしはあなたがたの恥辱となることはしない。
あなたがわたしについて真実を語らず、わたしのしもべヨブのようではなかったが。※6

ではなぜ神を批難したはずのヨブが正しいとされ、神を弁護したはずの友人が糾弾されなければならなかったのか。

その理由はおそらく、神の義をめぐって、友人は道徳論に終始したのに対し、ヨブは矛盾に直面して道徳がもはや通用しない領域に神の御心を求めたからである。一方の友人たちは今回の苦難をあくまで原因と結果という合理的な観点から断罪したが、他方ヨブは自らの信仰に一点の曇りもないことを確信しつつ、何の理由もなく降りかかった災難に向き合い神を求め続けた。いうならばヨブの友人は罪もない人が苦しんでいるというこの世界の不条理さを道徳の観点から同情しているだけであり、それゆえ身の潔白をヨブが主張すると敵になった。彼らには理解し得ていなかった、この世の中において、何の罪がなくても不幸な出来事は起こり得るということを。この善行と幸福の無関係、神と人との断絶こそキリスト教が導き出した究極の答えなのである。

この物語に示されている教訓は、人間が宗教と道徳を履き違えているということだ。そのため、神の義に目を背け、簡単に他人に同情したり、逆に見下したりしてしまう。宗教と道徳が二つの異なる次元にあることは次の例によって証明される。たとえば道徳では良いことをすれば褒められる。また、善き父母であることは、同時に社会的に立派な大人であると見なされる。いずれにせよここには等価交換が成り立つ。逆にいえば、この等価交換が成り立つからこそ、良いことをした人は社会から賞賛され、そうでない人は社会からバッシングされる。それに対し宗教ではそうした等価交換は成り立たない。たとえばアブラハムは神の言葉を信じて、一人息子イサクを燔祭のいけにえに捧げようとした逸話は有名である。これほどまで信仰篤き人である彼は、しかし社会的にみれば単なる犯罪者である。宗教においてときに犯罪者と聖人は逆説的に結びつく。日本でかつて弾圧されたキリシタンも、今ではローマ教会によって聖人に列せられている。

先ほども少し触れたが、そもそも神と人間の間に断絶を見ることがキリスト教の要諦である。したがって、キリスト教神学の父アウグスティヌスが述べるように、人間がどれだけ努力しても、救われるか否かはすべて神の恩寵にかかっている。この人間と神の到達不可能性ゆえに、人は信仰に至るまでに様々な受難に遭遇する。だが、信仰をもっていないヨブの友人たちは、「神がいるならば、なぜ正しい人が苦しまなければならないのか」という疑問は抱かない。ヨブの如く真に神を信じているがゆえにこの世の不条理に立ち向かわざるを得ないのである。これを知る者のみが「同情」を超えて「愛」に達することができる。母と子のように条件付きの愛ではなく、それこそ無償の愛へと。

事実、ヨブは結末でこれまで失ったものをそのまますべて取り戻すことができる。すなわち、亡くした息子と娘たちに加えていままでの二倍の財産を。こうした奇蹟こそキルケゴールが「反復」と呼んだものである。それは確かに信仰なくしてはできないことだが、その意味を今後は哲学的に明瞭にしていきたいと考えている。

最後に、「事実は小説よりも奇なり」という言葉に従って、「宗教は道徳よりも奇なり」という言葉をここに書き記しておきたい。一般に事実というものは矛盾や逆説だらけで、小説のように美しい話にはおさまらない。だからこそ本質的な作家は、これに抵抗し、自らを突き放してくるかのような体験に「文学のふるさと」(坂口安吾)を見出すのだ。あたかも、恐ろしい姥捨て山に捨ててくれと息子にせがむ母親のように、「道徳観念」(ヒューマニズム)を突き放したところに人間のリアリティ(事実)を追求する如くに。同様に、我々も一介の道徳家から出発して、いつかは善と悪の彼岸を越えて、普遍的な事実の認識へと辿り着きたいものではないか。

おそらくこうした険しい人生行路を歩む過程で、ヨブ記はまさに最良の導き手である。ヨブ記はキリスト教の深奥を文学を通して、そして文学の深奥をキリスト教を通して解き明かす。そしてここで開示された<宗教>の領域は我々の思索と想像力を永遠に掻き立てる何かであり続けている。

(注※)

1.ヨブ記 、第三章、第三節~第26節、(日本聖書刊行会『聖書』、新改訳、一九五四年)
2.同書 、第四章、第七節~第9節
3.同書、第一九章、第二八節~第二九節
4.同書、第四〇章、第七節~第九節
5.同書、第四二章、第二節~第六節
6.同書、第四二章、第七節~第八節

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コメント / トラックバック4件 to “キリスト教の根源―ヨブ記論”

  1. Miho said

    これぞ秋月誠仁の文章と言う論考ですね。解り易くしかも深い。ここまでの筆力を持った人はそうざらにはいないでしょう。素晴らしいです。「神がいるなら、なぜ正しい人が苦しまねばならないのか」というテーマも極めて現代的ですね。私もあらためてヨブ記を読み直したくなりました。ありがとう♪♪♪

    • akizukiseijin said

      いつも温かいコメントを寄せてくださってありがとうございます。今後とも何かを一緒に考えていけるきっかけになればと願っています。

  2. 摩子 said

    私もMihoさんに同感です。秋月さんの素晴らしさがより一層深まった感じですね。
    何度も読み直したくなる秀逸な文章です。これからも応援しています。

    • akizukiseijin said

      摩子さん。コメントに感謝します。いつも温かいコメントに励まされています。今後ともよろしくお願いします。

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