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Shota Maehara's Blog

啓蒙と神話の弁証法―貧しき人々と失われた誇り

Posted by Shota Maehara : 11月 30, 2008

九〇年のバブル崩壊から失われた十年を経ていまや不況は二〇年目に入ろうとしている。現代の日本には、企業の不正、給与のカットや失業、政治の低迷などによってことごとく自尊心を傷つけられた人々がいる。彼らはただもう何かにすがりつこうとして、愛国心や誇りを嘘でもいいから取り戻したがっているように見える。

「恒産なくして、恒心なし」という孟子の言葉にもあるように、絶望した者は失うものがないので、破滅的な行動に向かいやすい。人々は日々の憂さを晴らすためだけに批判する対象を探し回っているようにさえ見える。このまま民主政治は衆愚政治へ移行し、無秩序に至ってしまうのだろうか。

元・外務省主任分析官の佐藤優氏は、国家には事実を超えた「神話」が必要だと主張している。例えば北畠親房の『神皇正統記』の中にある対立した意見を包含する神の国の姿がそれだ。それなくして国を統一することができないという価値観や民族精神が確かに存在する。またそういう言葉は人を死へといざなう抗しがたい魅力をそなえている。

近年の右傾化現象、新しい歴史教科書をつくる会の活動などこの点から理解することができる。その中でも最たる例が元自衛隊航空幕僚長の田母神論文である。さまざまな場で田母神氏は、戦前の日本は素晴らしい国だったと書いたら解任されたと政府を非難している。日本の二一カ条要求や満州事変に対する抗日運動の事実があるにもかかわらず、それはそれとして日本は侵略国ではないと断じている。歴史は史観によっていろいろな見方ができるのだから、言論を封殺するのはファシズムだと憤る。

しかし、「言論の自由」とは何であるか。それは好きなことを言う自由であるのか。もちろんそうではない。自由には責任が伴う。それが言論であるからにはあくまで事実を究明し、それを自ら証明していく義務がある。戦前の日本は良い国であったという一辺倒の価値観によって、事実の方も都合よく塗り替えられてしまうのであればそれこそファシズムである。史観とは研究の最後に出てくるものであって、最初にあるものではない。そうでなければ客観的事実といった考えそのものが、この国から消えていってしまうだろう。

実は田母神氏が欲しているものは「真実」ではない。それは「神話」なのだ。この差異を当人も自覚していないし、メディアも自覚していない。ここに混乱の源がある。ことの本質は、政治と道徳(宗教)が分離されず、住み分けず、再び宗教が政治を侵食し始めたことにある。言いかえれば、事実の領域と、価値観の領域が融合しつつある。かつて戦前天皇制は政治的元首であり宗教的権威でもあった。そのため特に昭和一〇年代になると国家神道に基づく国民教育が徹底化され、戦争と敗戦を経て天皇制への国民の信頼を失わせる結果を招いた。こうした経験に鑑みて、近代社会は政教分離を原則としている。つまり、宗教を世俗に塗れた政治から遠ざけることによって、逆に習俗を支える精神的基盤として残していこうとしたのである。こうした啓蒙主義がいま揺らぎ始めているのかもしれない。

かつて、マルクスは啓蒙主義者を批判してこう述べている―宗教は民衆のアヘンである。それをなくすためには、宗教を必要とする悲惨な現実をなくさねばならない、と。神話もまた民衆のアヘンである、だからそれを必要としている悲惨な現実をまずは解決しなければならない。つまり、貧困格差の問題である。もしかりにこの長期不況があと三年から四年は続くと予想されるならば、その政治的帰結として恐ろしい事件を頻発させてゆくだろう。その対処療法として国家は貧困者へのセーフティネットを確保しなければならない。その上で、最低限の富が社会に還元されていく現代のノーブレス・オブリージュの仕組みを市民が考案していく必要があるだろう。

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コメント / トラックバック3件 to “啓蒙と神話の弁証法―貧しき人々と失われた誇り”

  1. akizukiseijin said

    近年の日本社会の右傾化は正と反の両方の立場から、論評する必要がある。だから私はこれに関して次の二つの文章を書いた。比較参照:「文民統制へのルサンチマン」https://akizukiseijin.wordpress.com/2008/11/22/%e6%b0%91%e4%b8%bb%e6%94%bf%e6%b2%bb%e3%81%ab%e3%81%8a%e3%81%91%e3%82%8b%e8%bb%8d%e4%ba%ba%e3%81%ae%e7%b2%be%e7%a5%9e%e7%9a%84%e5%9c%b0%e4%bd%8d%e2%80%95%e6%88%91%e3%80%85%e3%81%af%e8%bb%8d%e9%9a%8a/

  2. miho said

    とてもわかりやすくて説得的な文章です。ある現象を内側と外側の両方から吟味=批判する。これがやっぱり批評家の仕事だと思います。これからも応援していきますね♪♪♪

  3. akizukiseijin said

    秋月誠仁です。お久しぶりです。

    最近の日本賛美論について触れておられましたが私も同感です。日本には明治以来陸羯南などの優れたナショナリストがいましたが、昭和に入ると「近代の超克」に象徴される京都学派や日本浪漫派は日本はもはや近代文明を超越しているアジアの盟主であるという意見が実しやかに囁かれました。

    そして、現在、一部の人間の間で日本の上層部(エスタブリッシュメント)に対する嫉妬(ルサンチマン)が鬱積しています。彼らには自分自身が右寄りだという自覚はありません。ただ気持ちをスカッとさせてくれる人や意見に賛同しているだけなのです。

    それはかつての清沢洌の直面した危機を思い起こさせます。つまり、「インテリに対する反感は、また学問を排する立場である。知らぬものが、知っているものを排撃するのだ」と。こういう状況を防ぐためには、たとえ無力であったとしても現実を分析し、斬り込む言葉を紡いでいくしかないと思います。

    (Modest Comments on What I Have read さんへ)

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