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Shota Maehara's Blog

トクヴィルのデモクラシー研究(第二巻)

Posted by Shota Maehara : 11月 28, 2008

アレクシス・ド・トクヴィル『アメリカのデモクラシー』第二巻

一人の人間の知性が他の人間の知性に働きかける作用について言えば、市民がほとんど同じになっても誰もが親しく付き合うような国、争い難い偉大さや優越性を誰にも認めず、真理の最も明白で身近な源泉として絶えず自分自身の理性に立ち返る国にあっては、そのような作用は必然的に強く限定される。このとき、ある特定の人間への信頼が失われるだけでなく、およそ他人の言葉を信用しようという気がなくなる。(段落)誰もがだから固く自分の殻に閉じこもり、そこから世の中を判断しようとする。(同書、第二巻、(上)、一九頁)

アメリカ人はだから彼らの哲学の方法を書物に求める必要がなかった。自分自身の中に発見したのである。ヨーロッパでかつて起こったことについても同じように言えるであろう。(同書、二〇頁)

一八世紀の哲学の方法はだから単にフランス的なものではなく、民主的なものである。これこそ、それがあれほど容易にヨーロッパ全体に受け入れられ、その様相を一変させるのに大きく貢献した理由を説明する。フランス人はその古き信仰を変え、古き習俗を改めることによって、世界を覆したのでは決してない。それは彼らがはじめて、一切の古き事物を攻撃し、あらゆる新しきものへの道を開くのに役立つ一つの哲学の方法を広め、明確に打ち出したからなのである。(同書、二二頁)

平等の世紀に生きる人々に好奇心は多いが、暇は少ない。彼らの生活は実用的で複雑であり、絶えずせかされ活動的である。そのため、ものを考える時間がほとんどない。民主的な世紀の人々が一般観念を好むのは、それが個別の事例を検討する手間を省いてくれるからである。そうした観念は、このように言うことができるとすれば、多くのものごとを一つの小冊子に取り込み、わずかな時間で大きな成果を挙げる。手早くざっと調べるただけで、いくつかの対象の間に共通の関係を認めたと思うと、人々はそれ以上研究を進めず、このさまざまな対象が互いにどう似通い、どう違っているか詳細に検討することなく、急いで全部を同じ定式にくくって、先へ進む。(同書、三九頁)

過去の世紀の土地貴族制は従者を援助しその貧困を和らげる義務を法に負わされており、でなくとも習俗がこれを義務づけていると感じた。だが、今日の工場貴族制は、使用人を貧乏にして、意欲を奪い、その後、恐慌になると、この人々の扶養を公共の慈善に委ねる。これは先に述べたことから当然に生ずる。労働者と雇用主の間に頻繁な関係はあるが、真の結合はない。(同書、二七四頁)

民主的国家における自由を破壊しようとするものはこれを達成するもっとも確実で最短の手段は戦争であると知るべきである。これは学問の第一の公理である。(同書、第二巻、(下)、一八四頁)

民主的世紀の人間は自分と同等の隣人に従うことに極度の嫌悪感を覚えざるを得ない。彼は隣人が自分より優れた知識をもつことを承認しない。隣人の正しさを疑い、その力に猜疑の目を向け、彼を恐れ、かつ蔑む。ことあるごとに、二人とも一人の主人共通に服していることを彼に感じさせようとする。(同書、第二巻、(下)、二二三頁)

ヨーロッパの現代の諸国では、私がこれまで示したすべての原因とは別のある大きな原因が絶えず働いて、主権者の行動範囲を拡大し、その大権を増大している。人はこの点について十分警戒してこなかった。この原因は平等の進展が促す産業の発展である。(同書、二四三頁)

国家は第一の産業家であるだけでなく、ますます、他のすべての産業家の指導者、否、その主人となる傾向がある。(二四六頁)

現代人は二つの相反する情熱に絶えずとらわれている。指導されたいという欲求を感じ、同時に自由のままでありたいという願望ももつ。この相反する衝動のどちらも消すことができないので、彼らは両者を一度に満たそうと努める。単一の、人を後見する全能の権力、ただし市民が選挙で選ぶ権力を想い描くのである。彼らは集権制と人民主権を結びつける。このことは彼らをいくらか安心させる。後見人を自分で選んだことを思って、甘んじて後見を受ける。鎖の端をもつのは一人の人間でも一つの階級でもなく、人民自身であることを見て、誰もが鎖につながれるままになる。(同書、二五八頁)

民主的諸国民にきわめて自然で、非常に危険なもう一つの衝動は彼らを個人の権利の侮蔑と軽視に導く衝動である。(段落)一般に、人々がある権利に執着し、これを尊重する理由は、それが重要であるか、彼らが長くこれを行使してきたことによる。民主的諸国民における個人の自由は通常ほとんど重要ではなく、ごく最近に得られたもので、非常に不安定である。そのため、人はしばしば簡単にこれを犠牲に供し、これを侵害してもほとんどいつも後悔しない。(段落)ところで、この同じ時代、それも人々が個人の権利にある自然な侮蔑意識をもつような国民において、社会の諸権利は自然のうちに広がり、強固なものになることがある。すなわち、私人の諸権利がどんなに僅かでも残る限り、これを保持し擁護することがもっとも必要なその瞬間に、人々はこれへの執着を失ってしまうのである。(段落)それゆえ、われわれが今ある民主的な時代にこそ、自由と人間の偉大さの真の友は、絶えず毅然と立って、社会の権力がその計画を全体として実行するために若干の個人の私権を少しでも侵害することのないよう、備えを怠ってはならない。このような時代にはどれほど無名の市民であっても、その抑圧を放置することは非常に危険であり、どれほど重要性のない個人の権利も権力の恣意に委ねることは許されない。その理由は単純である。個人の私権を侵害しても、この種の権利は重要かつ神聖であるという観念が人間精神に深く浸透している時代ならば、被害をこうむるのはこれを奪われたものだけである。だが、今の時代に、同様の権利を侵害すれば、深く国民の道徳を傷つけ、社会全体を危険にさらす。この種の権利の観念がわれわれの下では不断に変質し、失われつつあるからである。(同書、二七二頁)

今日最大の危険は放縦か暴政か、無政府状態か専制か、これを絶対的一般的な形で言うことはできない。どちらも同じように恐れるべきであり、個人主義の帰結たる一般的アパシーという同じ一つの原因から同じように容易に出てくることがあり得よう。このアパシーあればこそ、執行権がいくらかの力を結集すれば、圧政が可能になり、次の日、一党派が三十人の者を隊列に組むことができれば、この党派もまた圧政を揮うことができるのである。どちらも永続的なものは何一つ築くことはできず、成功に導いた要因が長期の成功を妨げる。それらが立ち上がるのは抵抗するものがないからであり、崩れ落ちるのは支えるものがないからである。(段落)戦うべき重要な相手は、だから無政府主義や専制というより、両者をほとんど差別なく生み出すことのあるアパシーである。(同書、補説、二九三頁)

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