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Shota Maehara's Blog

トクヴィルのデモクラシー研究(第一巻)

Posted by Shota Maehara : 11月 27, 2008

アレクシス・ド・トクヴィル『アンシャン・レジームとフランス革命』

民主的専制と呼ばれる、中世にはまったく思いも及ばなかったこの特殊な形態の専制のことを、重農主義者たちはすでに心得ている。社会の階層化ととに階級差別が進み、身分が固定化した。しかし、民衆はほとんど類似した、完全に平等な個人からなる。まさにこののっぺらぼうの大衆は、唯一合法的な主権者と認められてはいるが、すべての権利―政府を自ら指導し、監視することさえできるすべての権利―を周到に奪われている。この大衆の上に存在するのは、大衆の名において、大衆にことわりなくすべてを行う責務を負った、ただ一人の受託者である。この受託者を統制するものは、器官なき一般の理性である。阻止するものは、法律ではなく革命である。彼は、法律上は従属的代理人であっても事実上は支配者なのである。(『旧体制と大革命』小山勉訳、三四二~三頁)

重農主義者たちは、この理想に適うようにみえるものをまだ周囲に見出すことができないので、それを極東に探すことになる。彼らの著書のここそこで、中国のことを大仰に賞賛していない者は一人もいない、といっても過言ではないだろう。それを読んで、少なくとも必ず気づくことがある。当時中国はまだまだ未知の国だったので、その国について語られる内容はおおむねつまらない話ばかりである。一握りのヨーロッパ人が意のままに操るあの愚かで暴虐的な政府は、重農主義者たちの目に、世界の全国民が模倣できる最もすぐれたモデルと映ったのである―すべてのフランス人のモデルは、その後イギリス、そして最後にアメリカとなるのであるが。偏見のない絶対君主が、有益な技術を奨励するために自らの手で土地を耕す。こんな国を想像して、重農主義者たちは感動し、まるで有頂天になっているかのようだった。その国では、すべての官職は文官試験〔科挙〕によって取得される。宗教は哲学しかなく、貴族階級はすべてが文人である。(同書、三四三頁)

今日社会主義という名で唱道される破壊的理論は最近のものである、と一般に信じられているが、それは間違っている。この理論は、初期の重農主義と同じくして現れている。初期の重農主義者たちは、自ら夢想した全能の政府を社会形態を変革する際の基準にした。それに対し、その後の重農主義者たちは、社会の土台を破壊するために想像の世界で同じ権力を奪取した。モレリーの著書『自然の法典』を読めば、国家の全能とその無限の権利に関する重農主義者たちのすべての理論とともに、最近フランスを最も震撼させた政治理論、今日初めて登場したかのように思われている政治理論のいくつかを見出すだろう。その理論とは、財産の共有、労働の権利、絶対的平等、全体的画一性、個人の行動の機械的規則性、規則による専制、市民的個性の社会への完全な埋没、などを謳ったものだ。(同書、三四三~四頁)

実は、中央集権と社会主義は同じ土壌の産物である。両者の相互関係は、栽培果実と実生の若木との関係に似て緊密なものだ。(同書、三四四頁)

一般的に言われてきたところによれば、一八世紀の哲学の性格は、ある種の人間理性崇拝―すなわち、思いどおりに法律、制度、習俗を変えることのできる、人間理性の全能を限りなく信頼すること―だった。よく理解しなければならないのは、一部の哲学者が崇拝しているものが、実のところ、人間理性というよりは自分自身の理性だった、という点である。彼らほど、民衆の知識を信頼していない者はなかった。神と同じくらい民衆を軽蔑しているしている者を何人か挙げて、その内実に言及することができるだろう。彼らは神に対しては敵としての、民衆に対しては成り上がった者としての傲慢さを露わにした。多数者の意思に対して心底からの敬意を払って従うこと、それは神の意思への服従と同じく、彼らの与り知らないものだった。以後、革命家たちはほとんどみな、この二つの性格を示していた。イギリス人とアメリカ人が同国の多数者の感情に払ったあの尊敬とは、まさに雲泥の差があった。両国人の場合、理性は誇り高く自信に溢れているが、横柄であることがない。フランス人の理性は新しいかたちの隷従を創出するだけだったのだが、両国人の理性は自由をもたらしたのである。(『旧体制と大革命』小山勉訳、注解六四、五一六頁)

アレクシス・ド・トクヴィル『アメリカのデモクラシー』第一巻

デモクラシーを教育し、できうればその信仰を蘇らせ、習俗を純にして、その動態を規制し、実務に知識でデモクラシーの未熟を次第に補い、盲目の本能に代えてその真の利害を知らしめる。さらに、民主政治を時と所に適したものとし、状況と人間に応じて修正を加える。これらが今日、社会を指導する人々に課される第一の義務である。(段落)すべてが新しい世界には新たな政治学が必要である。(『アメリカのデモクラシー』序文、松本礼二訳、第一巻、(上)、一六頁)

ヨーロッパの多くの国では政治の動きは社会の上層部でまず始まり、それが少しずつ、しかもつねに不徹底な仕方で社会全体のさまざまな部分に伝えられてきた。アメリカでは逆に、群(カウンティ)より前に自治体(タウン)が、州より前に群が、そして連邦より前に州が組織されたということができる。〔トクヴィルは、フランスの地方行政単位「市町村」を意味するla communeの語を米国のtown、townshipに当て、また両者を含む一般概念として「地域共同体」の意味でも用いている。本訳書ではフランスについては「市町村」(コミューン)、米国については「タウン」とし、一般的意味の場合は「(地域)共同体」と訳し分ける。なお「タウン」と「タウンシップ」は同義だが、ニュー・イングランドでは一般に「タウン」が用いられる。〕(同書、六五~六頁)

中国は、極度に集権化された行政がこれに服する人民にいかなる種類の安楽を提供することができるか、そのもっとも完璧なシンボルであるように私には思われる。旅行者たちが述べるところでは、中国人の静謐には幸福が欠け、その産業には進歩がなく、安定していても力がなく、物理的秩序は保たれても公共の道義に欠ける。彼らにあって、いつでも社会はそれなりに運営されているが、見事に運営されることは絶えてない。中国がヨーロッパ人に開放されたなら、ヨーロッパ人は世界中に存在する最もすばらしい行政的集権のモデルをそこに見出すであろう、と私は想像する。(同書、第六章原注(五〇)、三四八頁)

私としては、アメリカで見た限り、そのように考えることはできないと言わねばならぬ。合衆国に着くとすぐに、私は被治者の中にすぐれた人はいくらでもいるのに、為政者の側にはそれがどれほど少ないかに驚いたものである。今日、合衆国では、最上の人物が公職に呼び出されることは滅多にない。これは確かな事実であり。しかもデモクラシーがかつてのあらゆる限界を超えるにつれて一層そうなってきたと認めねばならない。アメリカの政治家の質が、この半世紀、著しく低下したことは明らかである。(同書、第一巻、(下)、五三頁)

そのうえ、民主政治に欠けているのはすぐれた人物を選ぶ能力だけではない。ときにはその意志も好みもないことがある。(同書、五四頁)

合衆国では民衆は、社会の高い階級を別に憎んではいない。だがこれにほとんど好意をかんじてはおらず、注意深くこれを権力の外においている。民衆はすぐれた才能を恐れはしないが、好んでもいない。一般に、民衆に支持なしに立つ者がその好意を得ることは困難だといえる。(同書、五五~六頁)

民主政治の自然な本能が民衆をして卓越した人物を権力から排除せしめる一方、これに劣らず強力なある本能によって後者は自ら政治的経歴から離れていく。というのも、すぐれた人物にとってこの世界に留まりながらまったく自分を変えず、堕落せずに進むことは難しいからである。(同書、五六頁)

普通選挙こそよい政治家を選ぶ保証だと考える者が完全な幻想に囚われていることは、私にははっきり証明された。普通選挙には別の利点があるが、この点ではない。(同書、五六頁)

アメリカでは多数者が思想に恐るべき枠をはめている。その限界の内側では作家は自由である。だが一歩その外へ出れば、禍が降りかかる。火刑に処されるのを恐れねばならぬわけではないが、ありとあらゆる嫌悪の対象となり、毎日迫害の憂き目を見る。政治の道は断たれる。その道へ彼を導きうる唯一の力に逆らったからである。何を求めても彼は拒絶され、栄誉も名誉も与えられない。意見を公にする前には支持者があると信じていたのに、天下に見解を明らかにしてみると、支持する者は誰も眼に映らない。彼を非難する者は声高に叫ぶが、彼と同じ考えの者は口にする勇気がなく、沈黙し、遠ざかっていくからである。彼らは譲歩し、やがて日々の圧力に屈し、まるで真実を語ったことを悔いてでもいるかのように、沈黙に返る。(同書、一五四頁)

今日、地球上に、異なる点から出発しながら同じゴールを目指して進んでいるように見える二大国民がある。それはロシア人とイギリス系アメリカ人である。(中略)アメリカ人は自然がおいた障害と闘い、ロシア人は人間と戦う。一方は荒野と野蛮に挑み、他方はあらゆる武器を備えた文明と争う。それゆえ、アメリカ人の征服は農夫の鋤でなされ、ロシア人のそれは兵士の剣で行われる。(段落)目的の達成のために、前者は私人の利益に訴え、個人が力を揮い、理性を働かせるに任せ、指令はしない。(段落)後者は、いわば社会の全権を一人の男に集中させる。(段落)一方の主な行動集団は自由であり、他方のそれは隷従である。(段落)両者の出発点は異なり、たどる道筋も分かれる。にもかかわらず、どちらも神の隠された計画に召されて、いつの日か世界の半分の運命を手中に収めることになるように思われる。(同書、四一八頁)

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