I am the vine; you are the branches

Shota Maehara's Blog

民主政治の防波堤―ラディカルな少数者の意志

Posted by Shota Maehara : 11月 16, 2008

私にとって、自己中心的であるということは一つの美徳である。あらゆる点からみて、私がただ自分自身の満足を求めて生きているときの方が、世間のことをとやかく心配しているときよりも、ずっと役に立つことをしているのである。―ギッシング『ヘンリ・ライクロフトの私記』

先月、アニメーション監督の宮崎駿氏は作家で友人の堀田善衛を語るシンポジウムで講演を行った。その中で彼は堀田から教わったという「伝道の書」の言葉―「凡て汝の手に堪ることは力をつくしてこれを為せ」(旧約聖書)を引きながら、「これをやったら世の中のためになるとか、意義があると決まっている仕事はない。どんな仕事でも力を尽せば、やってよかったと思う瞬間がある」(読売二〇〇八年、一〇月二一日、朝刊)と述べ、「個性とか生きがいのために生きていくと、足をすくわれる」と警鐘を鳴らしている。一体こうした反語的な言葉を私たちはどのように解すべきなのだろうか―。

現代社会はメディアに採り上げられるような手法をとるかとらないかが物事の価値を決めるすべてである、と言っても過言ではない。言い換えればこれはメディアによって採り上げられるか否かが事実の重み以上に今日においては死活的な意味を持っているということである。これこそ現代社会のα(アルファ)でありΩ(オメガ)である。

ただし、私たちはこれをもっと広い意味に解さなくてはならない。つまり、上記の特徴はあるゆる活動が他人からどう見られているかまたどう映るかをあらかじめ想定してなされなくてはならないということである。例えば経済は需要と供給の法則で動いているので、あらかじめ市場をマーケティング調査して需要が見込めるかどうかを確かめた上で何かを始めるべきだと誰もが口を揃える。

これがいまや経済活動ばかりか、私的な(プライベートな)領域にまでも這入り込んできている。例えば、先の北京オリンピックで水泳の北島選手が金メダルを獲得した瞬間、アナウンサーは彼の健闘を称して、「やぁ、これで北島君のCM契約料はイチローと並んで一億の大台を突破するのは確実ですね」と表現した。またある女性アナウンサーがトーク番組に出演して理想の結婚相手を尋ねられた時、性格や相性よりも先に「年収がいくらあるのかが重要」と露骨に言い放った。さらに近頃の親はテストの成績で子供をはかる。もし良かった時には溺愛するくせに、悪かった時には、「そんな子はうちの子じゃありません」と冷たくあしらう。この社会では恋人や子供すらある一定の条件を満たせば愛しもするが、彼らの存在自体が無償の愛の対象なのではない。だから、結局は金の切れ目が縁の切れ目なのである。

こういった現象を生む背景には一体何が考えられるだろうか。たとえば大衆社会や資本主義の影響がすぐに指摘できる。なぜなら、現代社会は本当に価値のあるものは世間の価値基準を超えてゆく所にあることを薄々知りつつも、すぐに売れるためどうしても流行を追い掛けてしまう。これは価値あるものを認めさせていくにはどうしても時間がかかるから、短期的に利潤を上げる方法を選びたがる資本主義の性(さが)である。そのため誰しもが他人にはっきりと見える物差しを欲しがる。

しかしより純粋に眺めれば、常に他人の評価を気にし、その基準のなかで物事を行おうとするこうした傾向はむしろ民主政治の特徴なのではないか。なぜなら平等を原理とする民主政治では、人々は時として個人的に秀でることよりも他人と同調することに魅かれてしまうからである。トクヴィルは民主社会の特徴として驚くほど現代に酷似している諸現象を挙げている。例えば人々は好奇心が多い割に暇がないために、手っとり早く小冊子に取り込んだ即席の知識を求める。そしてより深刻な問題は供給する側でもこうした現状を是認し疑問に思わなくなってしまうことだ。彼は次のように述べている。

「民主的な世紀の際立った特徴の一つは、そこでは安易な成功、現在の享楽への好みに誰もが染まるということである。この点は他のすべての職業同様、知的な職業にも見られる。平等の時代に生きる人々の多くは激烈にして軟弱な野心に溢れている。彼らは大きな成功を即席に得ようと望むが、努力はあまりしないで済まそうとする。この矛盾した本能が彼らをまっすぐに一般観念の探究に向かわせ、彼らはその力を借りて、広範な対象を簡単に描き、公衆の注目を苦もなく引きつけられると自画自賛する」(『アメリカのデモクラシー』、松本礼二訳、第二巻、(上)、三九~四〇頁)

こうした現象に対して私は次の処方箋を提示したい。すなわち、「エゴイズム」(自己愛)の意味を再吟味することである。とかく現代はエゴイズムというと昨今の利己主義や刹那主義の元凶だと見なして一蹴してしまう。だが、ルソーが示したように自己愛は人間が誰しも持つ素朴な感情である。そうした自分の好きなことに向かう性向はそれ自体は悪ではく公共心とも矛盾しない。むしろ、自分の好きなことに挫折し、他人を羨む「ルサンチマン」(嫉妬心)こそが反社会的な行為へと走らせるのだ。なぜならば自分が好きなことに徹することができずに、常に他人の顔色ばかり窺っている人間は周囲の優れたものを認められず、自分の所まですべてを引き下げてしまうからである。

かくして現代人は無闇に流行を追いかけるばかりで、本当に自分のやりたいことをやり続け、いつかその価値を証明して見せることをしない。絶えず他人の目線ばかり気にして誰もが何でも屋になりたがる。つまり、素朴なエゴイズム(自己愛)を土壌にしつつも、それを反骨の精神へ育んでいくことができない。また社会もすぐに結果だけを求めて見守ろうとしない。では、こうした風潮に対して今何ができるだろうか。それは自分にしかできない領域を創り上げ、同時にその本分を守ってゆく真のプロフェッショナリズムを育てていく以外にないと私は信じている。

広告

コメント / トラックバック4件 to “民主政治の防波堤―ラディカルな少数者の意志”

  1. 一般観念の探究、そうですね。思考が直結。もう癖というか。
    (などと言っといて、自分も(笑)マーケティング齧るとなりがちなんだよなぁ。。。@@;汗)

    エゴは、エゴを我慢してきた者達の格好の餌食。

  2. akizukiseijin said

    dbadminさんへ。

    一般観念から入ってしまうっていうのは、今の人なら誰にでも身に覚えがあることですよね。私も自戒を込めて書きました。でも、dbadminさんや仲間にこのブログを見ていただけてるんですから、せめてなるほどなぁと感想を持っていただけるように努めていきます。本当にdbadminさんがコメントしてくださることによってどれほどにいろいろな刺激をもらえていることか。有難いことです。

    それにしても今回のテーマは私自身の視点が明確になっていなかったからか、このテーマを分かりやすく読んでいただくためかはわかりませんが、かなりの回数リライト(re-write)しました。いろいろ、身近な人にもご意見いただいてやっと今の形になりました。おかげで私自身の主張がよりクリアになったと感謝しています。

    そちらのブログもまた遊びに行かせていただきます。よろしく(礼)!!!

  3. NANA said

    こんにちは秋月さん。NANAです♪このエントリを読ましてもらいました。そーだよね、何かと世間的な評価を気にして右往左往しているより、芸術家や文筆家は、自分の道を邁進するべしと言うことよね。その方がいい仕事ができるし、結果的にのちのち社会にも役立つ事が多いしね。サンキューでした♪♪♪

  4. akizukiseijin said

    To NANA. you are right. I am afraid that your comments tell much more than my essay. Thank you.

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中