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Shota Maehara's Blog

永遠回帰についての手記

Posted by Shota Maehara : 11月 13, 2008

st_fri人間はいつも時代の風に翻弄されながら生きている。誰しも自分の運命を自覚しているようでありながら、糸の切れた凧のようにただ世の中を彷徨っているだけのようでもある。

ヘルマン・ヘッセは、『デーミアン』という作品で自分自身の芸術への道がどんなものであったかを一人の少年の半生に託して描いている。その冒頭で、次のように述べる。「どんな人間の生活も、自分自身への道であり、ひとつの道を試みることであり、ひとつの小径の暗示である。どんな人間でも、百パーセントその人自身になりきったというためしはない。そのくせだれもかれも、そうなりたいと努めている」。

つまりヘッセは、人生とは自分自身への終わりのない旅なのだと述べている。彼は芸術家を念頭に置いていたが、同時にこれは学問をする人間の姿でもある。一見、学問は自然や社会や歴史といった外にある対象を扱うかに見える。しかし、本当は自分の中からテーマを掘り下げてゆくものなのである。そもそも何をテーマにするのかという選択をするのは自分自身である。その自分の追及しているテーマは、必ずどこかで現代の出来事と交差する。そこに自分の持っているテーマの<現在性>が生まれる。その時、人々の心と頭脳を打つ作品が出来上がるのだ。

だから不思議なことに学問を千鳥足で進めてゆくとまるで自分自身の正体を明らかにしているような錯覚を覚える。数多の先人の書いた書物と対話するなかで、自分が深いところで対決しなければならない人、また自分と同じ考えを持つ人と出会う。それらを通して本当に自分のもつ考えが正しかったのかが浮き彫りにされてくる。言い換えれば、自分の思考の強さとそれ以上に弱さが自覚されてくる。そして驚くべきほどに今の自分が持つに至っている考えが、少年時代の経験に淵源していることに気づく。こうしてもう一人の自分と出会っていくのが学問を探究する喜びの一つなのかもしれない。

確かにそうはいっても時代の風は冷たく激しい。人は誰しもその前に無力だ。だからせめてこの時代から最大限利益を引き出せる生き方とは何かを考えるべきだと言う人もいるだろう。

だが私はどうしようもなくこの時代が生みだした人間でありながら、同時にどの時代においても変わらない自分にいつか到達し得ると考えている。あたかもツァラトゥストラが「これが生だったか、よし、それならもう一度!」と叫ぶかのように、もし何度生まれ変わってもまた同じ自分になるだろうというところまで自分自身を究め尽したいのだ。

ニーチェの永遠回帰の思想は難解なことで知られているが、本当はこうした単純なことを述べているのではあるまいか。ふと、こんな考えが頭をよぎった。自分をとことんまで明らかにした人間は、時代に翻弄されることなく、いついかなるときにも変わらない自己を見出す。それこそ最高の生の肯定であり、意味もなく目的もない無情な時代を悠々と耐えていける。それを彼は「超人」と名づけたかったのかもしれない。

だとすれば個人を放棄して、民族という幻想の共同体に身を捧げることを選ぶべきだったろうか。むしろ、個人の力をどこまでも強め自らの限界を乗り越えさせてゆくべきだったのではないだろうか。私には自己を放棄することはこの人生という長い苦闘をただ楽に切り上げることのみを意味しているように思えてならない。自らを放棄する人間は未来に背を向け、過去を憧憬する。それに対して私は過去を重視しつつも、なお未来の可能性に賭けたいのだ。

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