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Shota Maehara's Blog

現代のノーブレス・オブリージュについて

Posted by Shota Maehara : 11月 10, 2008

アメリカでは、起業家として財をなし、慈善事業を始めることが成功者のステータス・シンボルとなっている。近年では投資家のウォーレン・バフェット氏やマイクロソフト社のビル・ゲイツ氏といった世界の富豪のトップツーが大規模な慈善事業に参入したことは記憶に新しい。特にビル&メリンダ・ゲイツ財団は「世界開発」「世界保健」「米国(の教育)」を三つの柱に世界から貧困を撲滅することを目指すという。そして、そのための資産二八〇億ドルを今後五〇年間でゼロにする予定である。

こうしたアメリカの資本主義の風土は、何も今始まったものではない。その黎明期にはロックフェラー財団の創始者ジョン・ロックフェラーなどがおり、日本の野口英世もロックフェラー医学研究所所員として梅毒や黄熱病の研究に携わり世界的な業績を上げた。実はかつての日本でもこのような起業家がいなかった訳ではない。明治には銀行の父と言われた渋沢栄一や林学の創始者で日比谷公園や明治神宮を造った本多静六などがいた。彼らはともに晩年慈善事業に専念したことで知られている。

では、彼らはなぜこうした慈善事業に手を染めるのか。これについては従来様々な要因が指摘されてきた。まず第一に挙げられるのが宗教的背景である。欧米ではキリスト教の奉仕精神がそれであり、日本などでは論語の精神などが強調されてきた。時には資本主義の起源にまで遡って、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(マックス・ヴェーバー)の関連性までが引き合いに出されたりもした。もしキリスト教徒として信仰を持っていることが日米の起業家のタイプの違いを生んでいるのだとしたら、もはや信仰を失った日本人に同様の行いを求めることは土台無理なのかもしれない。

しかし、バブルやIT景気で資産家になった著名人やヒルズ族が警察や検察に逮捕される事件が相次ぐ中で、私は違う認識を持つに至った。つまり、もしかしたら、これは日米の文化の違いや倫理感などと言って済ますことのできない現代の民主政治の根幹にかかわる問題なのではないかという疑問だ。

そもそも民主政治とは、成員間の平等を原理として出発している。いわゆる貴族という身分差がなく同じ平民が構成する社会だということである。その民主社会における経済的成功者は、一方で優越感を勝ち得るが、他方でかつての同じ平民からは嫉妬と反感を免れることはできない。まして競争社会において勝者よりも敗者が多いがゆえに、社会的な成功の梯子を登った後、彼らを無視して生活しても「負い目」は残る。だから、仮に金持ちが何らかの罪で捕まったとしたら、自業自得だとか天罰だとかいった皮肉な感想しかでてこない。それに対して金持ちの方でも「金を儲けて何が悪いのか」という水掛け論に終わる。

歴史が教える教訓によれば、人は弱い立場の者ではなく、強い立場の者に何らかの積極的な役割を担ってほしいと要求するものである。だからこそ中世身分社会で貴族は自らの高い身分が民衆に無意味なものと映ることのない様に、「ノーブレス・オブリージュ」(高貴な者の務め)と呼ばれるものを考え出した。さらに、近世の共和国イタリアのフィレンツェでは、金融業で巨万の富を築いたメディチ家は、芸術や学問のパトロンとして都市の繁栄を築いた。なぜなら彼らは製造業者でなく金貸しであっために天国に入ることはできないというキリスト教徒としての負い目があったからである。

こうした事実から我々は次の真理を垣間見ることができる。つまり、周囲の嫉妬や反感を逸らし、また負い目を持たずに済むために社会に富を還元する仕組みがいついかなる時代にも必要なのではないか。そして、本来平等である平民から出発した近代民主政治にはそれが一層必要なのではないか。もしそうでなければ、金持ちもそうでない人もどちらも報われない社会になってしまう。なぜなら、稼いだお金を社会に還元し、有効に活用していくための仕組みが備わっていないために、両者いがみ合ったまま社会を建設する力になり得ないからである。これは文化の違いや倫理の問題を超えて、不毛な対立を回避する合理的な回路が社会にないために起こる悲喜劇である。

こうした仕組みを文化や伝統という形で継承してきているアメリカの叡智はそれ自体素晴らしいものだが、同時にそれらが労資対立を調和する合理的な仕組みであることをもっと日本人は認識しなければならない。勿論過度の格差は無くすべきだが、社会を潤す金持ちの存在は貴重なのである。その意味で、国家に依存しない金持ちの存在はいまも市民社会に不可欠だとすら言えよう。私はこうした仕組みが日本でもっと認知されるべきであるし、国家の増税や赤字などによる福祉政策や累進課税にばかり頼るよりもこの方がよほど成熟した市民社会として健全で望ましい姿であることを信じて疑わない。

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コメント / トラックバック4件 to “現代のノーブレス・オブリージュについて”

  1. どうもーん。

    グリーンスパン氏の謝罪、ドキっとしました。
    それは置いといて。

    筑紫さんクラス?でやっとこ出てくる 相手のいいトコも悪いトコも認める考え。
    イザ自分絡みになると、幼稚になってしまう事多々!汗。
    読むと ハっとしますね。このエントリーは。

  2. akizukiseijin said

    どうもです。dbadminさん。いつもコメント感謝しています。とてもいいエネルギーをいただけている気がします。人間にはそれだけで人を元気にしたり、癒すことのできる人がいますがdbadminさんはまさにそういう人だと思います。いつもユーモアを大事にして、人の背中を押す力を持っている人は本当に素敵です!!!私もいつもそうなりたいなと願って日々よちよち歩きを続けています。でも願わくば、わが道がどこか見果てぬ世界に通じる大道であることを。

    “徒歩で、心も軽く、わたしは大道にひきつけられる。健康で、自由、世界は私の前にある、わたしの前にある長い褐色の路はわたしの選ぶどこへでも導いていく。”―ホイットマン「大道の歌」より

  3. Miho said

    なるほどね。面白い。とても面白いです。やっぱり、こういう見方ができる秋月さんはただ者ではありませんね。思わず納得してしまいました♪

  4. akizukiseijin said

    Mihoさん。いつもコメントありがとう。アメリカでは、オバマが選挙で勝って盛り上がっていますか。次は毎度の如く祭りの後の静けさでしょうね。また近況を知らせてください。楽しみにしています。

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