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Shota Maehara's Blog

ジャッキー・チェン讃歌―人命を代償にする革命は崇高ではない

Posted by Shota Maehara : 11月 6, 2008

ジャッキー・チェン(Jackie Chan)は、アジアが世界に誇るアクションスターである。彼は、一九五四年に香港で生まれる。七歳から京劇や中国武術を学び、その後スタントマンとして映画の世界に飛び込んだ。従来暗いイメージだったカンフー映画にコメディーの要素やストーリー性を取り入れることで、ファン層を広げることに成功した。

確かに修行を通して師弟関係を描き、最後に強敵を倒すという純粋なカンフー映画も素晴らしかったが、ストーリー(歴史)を織り交ぜたことで映画は深みを増したといえる。例えば、一九八三年の『プロジェクトA』はその代表作だ。この作品は二〇世紀初頭のイギリス殖民統治下の香港が舞台である。この作品で彼は主演、監督、武術指導、脚本を務めている。特に高い時計塔から落ちるスタントは圧巻としか言いようがない。内容はイギリス海軍や沿岸警備隊が海賊を取り締まるというストーリーで、サモ・ハン・キンポーやユン・ピョウなどの多くの名優が出演している。

一九八七年にはこの続編として『プロジェクトA2 史上最大の標的』が日本先行で公開された。キャスティングは前作ほど華やかではないものの、内容はぐっと深みを増している。特に清朝末期の香港が舞台となっているため、腐敗した警察内部と暗黒街の首魁の癒着、革命を掲げる若者たちと暗躍する清朝のスパイのそれぞれの思惑とやりとりだけでも観る者を飽きさせない。ジャッキーはこの地区に警察署長として赴任し活躍する。

特に印象的なシーンは、返り咲きを狙っている前警察署長の罠にかかって、逮捕され袋詰めにされて川に投げられたジャッキーを助けてくれた革命派の青年と婦人たちとの会話である。正義感から同じ警察内部の人間に殺されかけた彼に革命派の青年が人民を救うため一緒にやらないかという。するとジャッキーは次のように答えるのだ。

「そりゃ、君たちのやろうとしていることは、立派だと思う。」「でも、もし革命になったらどうなる。」

「革命に多少の犠牲はつきものだ。」

「ほらそこだよ、僕は警官だ。警官には市民を守るという義務がある。」「僕は眼の前の一人を見殺しにすることはできない。」

ここには社会主義者と自由主義者の考え方の違いが象徴的に表れている。明らかに、ジャッキーは腐敗を憎み虐げられた人のために良い世の中を作ろうという理想に燃えるこの革命派の青年に好感を持っている。私利私欲のために自分を殺そうとした前署長よりも、もしかすると目指す目標は彼らに近いのかもしれない。

しかしそうでありながらも、その理想のために多少の犠牲は已む無しという道を採ることはできない。おそらく、どんな理想よりも個人を重んじ、その立場から現実を粘り強く改変していく困難な道を自らに課そうとする。これが社会主義と自由主義とが交わるかに見えた寸前で、両者を分かつ神聖なラインなのだ。

この場面を思いだすと、私はシモーヌ・ヴェイユの次の一節を連想せざるを得ない―『カラマーゾフの兄弟』の中のイワンの議論。「この壮大な塔の構築によって今まで見なかったようなどんなにすばらしい光景があらわれるとしても、それがただひとりの子どもにただ一滴の涙を流させずにはあがなえぬものなら、ぼくはおことわりするね。」わたしは、この意見にまったく固執する。ひとりの子どもの一滴の涙をつぐなうにたるものとして、たとえ人がどんな理由をもち出してくるとしても、わたしはこの涙を容認することはできない。知性によって考えつくことのできるかぎりのどんな理由であろうと、絶対に。ただひとつだけの理由を除いて。ただし、それは超自然的な愛によってのみ理解できるものである。すなわち、神のみこころであったということである。(『重力と恩寵』)

私もまたこの意見に深く同意する。所詮人間が考えた大義名分に過ぎない革命や理想に人の命を犠牲にしていい程崇高なものがあるんだろうか。結果として、多くの人命が失われてしまったということは歴史に無数の記録がある。だがそれに対して私はどこまでも個人の生命と人格を守り抜きたいし、それにもっともな理由をつけてくる人間を決して信じないであろう。ひとは自分の命を軽々しく理想のために犠牲にすべきではない。それは他人の命をも軽々しく扱うことにつながりかねないのであるから。かつてスターリンのソ連がそうであったように。

もし仮にこれをヒューマニズム(人道主義)だと笑う人がいれば笑わせておこう。映画の本質はヒューマニズムだ。ジャッキーはそれを華麗なアクションとコメディーによって見事な娯楽作品に作り上げ、私たちを楽しませてくれる。そして、もちろん芸術の本質は人を楽しませることだ。ジャッキー・チェンよ、カンフー映画よ、永遠なれ。

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コメント / トラックバック2件 to “ジャッキー・チェン讃歌―人命を代償にする革命は崇高ではない”

  1. 少林少女が貸し出し中で借りれないーっす(哀)

    色んな国の映画を見てると、出演者達の何気ないセリフに、国民性が如実に表れてる事がありますね。

    仏映画とかだと「どんだけ性にフランクか!」とツッコミを入れたくなる事もしばしば(笑)

  2. akizukiseijin said

    わははは。dbadminさんどうもコメントありがとうございます。小林少女が貸し出し中ですか!そういえば『小林サッカー』もとにかくお腹が痛い映画でしたね。大好きです。本当に映画って素晴らしいと思うのは、それぞれの国民性が垣間見えるのにかかわらず、どこか違う土地の私たちにも訴えかける共通のものを持っていることですよね。

    私がカンフー映画ってやっぱりいいなと思うのは、彼らは頭がよくて、徳の精神もあって、それでいて武芸に長けた戦士でもあるということです。これって日本の武士道の精神にも通じる気がします。もちろん西洋の騎士道の精神にも。今の時代は知識人は頭でっかちで蒼白い顔をしているけど、昔は正義を守る強い武芸者でもあった。

    そういう意味で、ジョージ・ルーカスの『スター・ウォーズ』を観ると、「ジェダイの騎士」って知識人のモデルそのものだなって思うんです。よく古代のシャーマン(霊能者・巫女)は、「神の声」を聴く力があるっていいますが、「フォース」って神の声そのものですね。戦士と霊能力者は近代以前の知識人の二大グループです。

    今の知識人だって知識人である限り、同じ血を引いているわけだから彼らから学ぶことは大いにあると思います。やっぱり彼らの雄姿には惚れ惚れしてしまいます!!!

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