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Shota Maehara's Blog

「亜周辺と知識人―甦るウィットフォーゲル」 湯浅赳男

Posted by Shota Maehara : 11月 5, 2008

第1部 「亜周辺と知識人-甦るウィットフォーゲル」 湯浅赳男

近代文明の未来を考えるヒント

〈亜周辺〉とは文明史において、その文明を成立させた地域の外側で、その文明の強制を受けることなく、その文明の諸要素を自由に受け入れた地域、具体的にはユーラシア大陸の西端の西ヨーロッパと東端の日本を指すものである(ウィットフォーゲル)。そこでは、中心の文明に教条的に制約されることなく、先行する社会を下敷きにして、独自な文化を展開させることができた。この前近代の歴史において観察される文明のメカニズムから近代文明の未来を考える上でのヒントとして利用できるものがあるであろうか。言うまでもなく、近代文明の地域的区分においては〈亜周辺〉はない。近代には文明の外側は消えた。まず世界の覇権は「海洋国家」と「大陸国家」とに二分された。20 世紀には一時期、資本主義的な〈第一世界〉と社会主義を目指す〈第二世界〉、その他の低開発の〈第三世界〉とに区分され、その対決のなかで未来が考えられた。しかし、中国の迷走とソ連の瓦解は、この展望が妄想であることを明らかにし、世界のシステム的理解は僅かに〈中核〉〈半周辺〉〈周辺〉のウォーラーステインの図式が窓枠のように放置されているぐらいである。

近代世界の混沌のなかで

かくていま活気をもっているのは漢族の中華思想であり、ムスリムの自己主張であり、もしかするとモスクワを第三のローマとするスラヴの声が復活するやもしれない。あるいは、いまはカトリックによって統一されているけれども、インディオの復権(ボリバリスモ)の声が高まることもありうるだろう。しかも、ユーラシアの東西の伝統文明の〈周辺〉はなお近代世界の皮膜の下で、西はバルカン半島(ボスニア=ヘルツェゴヴィナからコソボまで)、東はインドシナ半島から朝鮮半島まで疼き続けてきたことも事実である。この近代世界の混沌のなかで、一時的に世界に秩序をもたらすかもしれぬと感じさせたアメリカ合衆国の覇権にももはや期待できぬようである。西ではヒトラーのホロコーストの罪は欧米がイスラエルを捨てることを許さないし、今やアメリカと対峙しうる唯一の強国となった中華帝国は日本より受けた屈辱の酸っぱいレモンをとことん搾りつくそうとしている。こうした状況では、いつ、どこで何が起っても不思議ではないと言える。しかしそれは驚くことのできる余地がなくなったということなのだろうか。

マージナルな未明の空間へ

ウェーバーによれば、新しい文化を生みだすことができるのは、文明の権力・威信に慣れすぎて、別に、と特に感じることを忘れているところにおいてではなく、不遜にも驚異する能力を残しているところにおいてであった。〈亜周辺〉の知識人のなかから突破者が生まれたのは、この能力が残っていたからである。ところで、いつどこで何が起ってもおかしくないということは、人類が限界まできた、またはフロンティアを失ったということであろうか。まさに、その反対である。ちょっとレンズを交換するならば、人類社会が地球上の生物の一種であり、世界的に有限の資源と環境のなかで生きていることが見えてくるだろう。新しいレンズを獲得するためには、知は権力であるがゆえに、近代の知のシステムを破壊する革命が必要である。それは知のファッションをなぞるだけではなく、それを背負いながら、マージナルな未明の空間を見つめることを許すだろう。ただし、それは断崖を行く覚悟を必要とするだろう。

湯浅赳男『「東洋的専制主義」論の今日性』を書き終えて亜周辺と知識人ゆあさ・たけお1930 年山口県生まれ。新潟大学名誉教授。サラリーマン時代の1956年、ハンガリー事件に感動し歴史学を志す。処女作はロシア革命の真相解明を試みた『革命の軍隊』(68)。以後『経済人類学序説』(84)、『文明の中の水』(04)など数々の著作によって、《マルクス主義の方法的批判とその今日的問題への応用》という仕事を展開し続けている。特別寄稿甦るウィットフォーゲル「東洋的専制主義」論の今日性還ってきたウィットフォーゲル● 湯浅赳男著新評論 2007/11刊 354頁 3465円 ●〈中心‐周辺‐亜周辺〉という東西文明の三重構造をそれぞれの風土・政治構造との関係から定式化したウィットフォーゲル。時代の流れに抗い続けた知識人ウィットフォーゲルの“人と学問”に光をあて、東アジア関係史における〈大陸・半島・列島〉の応酬の核心に迫る。

カール・アウグスト・ウィットフォーゲル(Karl August WITTFOGEL 1896-1988)ドイツ生まれ、米国亡命の歴史家。不世出の東洋史家にしてチャイナ=ウォッチャー。前期の大著『支那の経済と社会』(1931 平野義太郎監訳中央公論社 34)における風土条件を重視した国家分析が世界の知識人層に多大な影響を及ぼすも、「社会主義=専制官僚独裁」を体系的に理論化した後期の大著『オリエンタル・デスポティズム』(57 湯浅訳 新評論 91/95)によって、共産党とその影響下の知識人から総攻撃を受け、以後 89 年の国際共産主義運動の崩壊まで長らく学問的に封殺されてきた。その業績への再評価がいま内外で始まっている。

 

第2部  『「東洋的専制主義」論の今日性―還ってきたウィットフォーゲル』を読む

2007年12月1 日、早稲田奉仕園日本キリスト教会館において著者湯浅赳男氏(新潟大学名誉教授)を招いて、当会より土屋進、生江明、大野英士、白石嘉治、吉田秀登、永田淳、石黒りか、入江公康が参集。ウィットフォーゲルの思想、知識人のあり方、マルクス主義と国際主義など多様なテーマをはらんでの討論となった。(編集=入江)

 

“グローバルな”民主主義 

 

知識人の今日性

湯浅 20世紀は社会主義の幻想が膨らんで潰える世紀だった。知識人という言葉はいまや廃語ですが、20世紀を考える場合、国際共産主義に真剣に取り組んだのがウィットフォーゲルです。コミュニズムは 20 世紀知識人を呪縛してきた。僕はやっぱりトロツキーが好きです。世界革命によって階級間の矛盾、民族間の矛盾、自然と人間の間の矛盾を永続的に解決してゆく。だが 20世紀はその意味で悲しいけど茶番。東洋的専制主義を再建したことだった。スターリンの一国主義はロシアにおけるもっともリアリティある政策でありトロツキーのような夢想家では敗北は必至だった。亜周辺というその特殊条件が資本主義成立をうながした。そう考えると亜周辺において資本主義の高度な発展がありマルクス主義はその条件の下で成立した思想だったともいえる。今は権力に対する憧れもないし恐怖もない。知識人を含めグズグズになった感じですね。権力のアンビバレントを自己の責任において引き受ける悪魔性をもった知識人がいないね。

白石 この本の構えはあるものが甦ってきたこと。とりわけ社会主義と知識人は今日的問題となりえる。亡命知識人トニ・ネグリは 94年サパティスタ蜂起からユーロメーデーまでを振り返り「グッバイ・ミスター社会主義」という。小説家笙野頼子は、湯浅さんがいう「いかがわしい」左派知識人を「論蓄」と名指して論戦を挑んでいる。戦後思想は転向問題をずっとやってきたが、転向はコンヴァージョン。けれどもいっぽうでサブヴァージョン、つまり転覆があり、そしてさらにパーヴァージョンがある。倒錯=天邪鬼。ここにわれわれの知識人性、つまりデモクラティックな不服従の情動がやどり、それは良きものとして何度でも回帰する。

入江 社会主義内部での論争も忘却され、たとえば社会主義的原蓄をいったプレオブラジェンスキーなどソヴィエトの 20 年代の論争は振り返られない。あるいは中国はみずからをどう規定するかで以前は自国を第三世界と位置づけたが、グローバル化の下、いまやそうしたことさえ忘れ去られようとする勢いですね。

マルクス/マルクス主義

湯浅 80 年代の初め頃、僕は今後は Das Kapital ではなく、Das Macht が必要だといっていた。権力論。マルクス主義は商品、貨幣、資本はやったが権力はどうか。階級関係の維持とか階級支配の貫徹だけでなく、権力をそれ自体魅力あるものとして捉えないとダメ。権力をもてば人をひれ伏させることができるし人は強いものにひれ伏す。次の仕事として僕は権力論をやりたい。

土屋 マルクスは産業革命に直面しその分析と認識論的枠組みから『資本論』を書き、マルクス主義はそれを世界図式として定式化した。だが実際はまだ『八十日間世界一周』の速度で『ナショナル・ジェオグラフィック』的。その際資本の力はグローバル世界内部からでなく国家の形をとった外部権力として行使された。定住/移動性の地域環境依存社会と離陸しつつある資本主義社会とが作りだす「ゲオポリティーク」の世界です。“情報が世界を組織する”今日のグローバル社会において初めて権力論の設定がマルクスの予言と重なり、資本の力が不気味でグロテスクな姿を現しつつあるのではないでしょうか。

湯浅 アジア的生産様式について30~50年代を通じ論争があるが、僕なりの結論をいえば、マルクス主義は、生産様式について所有だとか人間的な隷属関係であるとか、やはりヨーロッパ的パラダイムで考えてきた。でもこの本でも繰り返したけど、まず国家ありきです。国家もまたずっとヨーロッパ的パラダイムで考えてきた。たとえば階級対立があって一定の生産力の上に国家は成立することになっている。

 

 新たな〈知識人〉の潜勢性―マルクス主義、革命、そして国家と民衆、世界と民衆

 

湯浅  でもそうでなく、農耕が成立して一挙に広大な農地を作りだす方法として大規模な治水灌漑があり、そこに国家成立をみるべき。農民が生産力を発展させ階級対立を作りだすには時間がかかるし、そんな余裕もない。だから遊牧民による征服の挿入が必要なんです。ウィットフォーゲルは慎重だから簡単にそうはいわない。でもきちんと読めば征服王朝論と水力社会論を並べて主張しています。古代文明がステップ遊牧民の征服によって作られた―国家から文明ができるというこのテーゼをマルクス主義はながらく受け入れてこず、またアジア的という地理的名称を用い、それを全般的奴隷制だとか位置づけたが、とにかく地理的な特殊性という観点を持ち込むと、それだけで人種主義、西欧中心主義と断じられる土壌があった。オリエント、古典古代、西ヨーロッパと中心部は移動する。中心、周辺、そして亜周辺があるという各々距離の問題がある。地政学の問題です。たとえばモンゴルからハンガリアまでつながっていて馬で 1 週間でいけることを考えねばモンゴル帝国は解明できない。

吉田 おもしろいのは交通の問題をいわれたこと。たとえば馬の重要性。これは現在のオイルの問題ともつながる。資源と交通、その配置や技術的な問題。歴史を考える上で確かに見落とされがちです。

永田 国家が文明をつくるという視点は、今ではかなり受け入れられるものになってきています。だが文明の唐突な出現が示すのは、時空間を変質するものが先に現れ、それを国家が保存したにすぎないということではないか。国家は維持するだけで発明はできない。だから先に現れたものとは何かを考えたい。

国際主義/世界革命

湯浅 ウィットフォーゲル思想の中心は国際主義。マルクスはなぜアジア的生産様式に関心をもったか。それは西欧だけで考えないということ。西欧だけで世界はわからない。万国の労働者諸君、団結せよという思想はいま消えてるね。革命は一国でできないという問題ですが、赤軍もそうした観点から捉える必要があった。国際主義も空語になったが、でも大事なのは国際連帯しかないということですね。

白石 組織されない国際連帯がある。「革命的群衆」(G. ルフェーヴル)。WTO会議や G8サミット反対運動はそのようなものです。多国籍資本やエスタブリッシュメントは、民衆の国際化と群集化をこわがっている。亜周辺という考え方がおもしろいのは二項対立でなく第三項を置いたこと。グローバル化は世界の亜周辺化であったともいえないか。中心と周縁の葛藤による組織化でなく、世界そのものの群集化。ここに流れているものこそ支配への志向をはらまない倒錯的でデモクラティックな情動です。

生江 社会主義の中でなぜ基本的人権のコンセプトがないのか。その意味で「国際主義」も党派的なものではなかったかという疑念も浮びます。アレントは 1950年前後に社会主義を問い直したが、グローバル化も世界のコンビニ化を目指すという意味では根底的には近代化に通ずるといえる。いずれにせよ民衆が主体性をもってもらっては困るということでは同じかもしれない。

大野 マルクスは当時もっとも先進的な資本主義であったイギリスをひとつのモデルとして『資本論』を構想した。20 世紀において、資本主義が生きのびたのは、逆説的に社会主義という「外部」があったからではないか。ところが、いまやグローバリズムが完結し、世界全体が一つの資本主義圏に統合されてしまいました。D. ハーヴェイも指摘するように、中国やロシアも含め、グローバルな規模での資本の蓄積と絶対的窮乏化が進行していて、マルクスの予言はその点だけは当ってしまったともいえるのでは。

湯浅 中国の 20年代、ペルーのマリアテギ、エジプトのアミンやアブデル・マリクについてやる人がほしいですね。亜周辺の思想としてのマルクス主義はそれらにより補完される必要がある。20世紀最大の思想はやはりマルクス主義ですから。

本と社会「人文ネットワーク」ニューズレター2008 年4 月1 日 第17 号●発行元人文ネットワーク●印 刷(株)新栄堂●編集制作(株)新評論編集部●事務局(株)新評論編集部内(担当:吉住)〒169-0051 東京都新宿区西早稲田3-16-28Tel.03-3202-7391 Fax. 03-3202-5832 E-mail: jinbun-net@shinhyoron.co.jp人文ネットワークは、読者・著訳者・編集者、さらにできれば書店・印刷所の方々とも連携して、我が国の人文書出版の現実、すなわち、単なる利便性や拙速性や広範性のみに腐心する本づくりの現状を批判し、その現実を改革しようという会です。私たちは、人文書が構想され制作され流通する現実的プロセスの全体を視野に収めつつ、特に制作プロセス、本づくりの現場に注目しながら―つまり我が国の出版の社会的現実における個々の人文書の具体的生産現場と切り離すことなく―、定期的な読書会を通して一冊の人文書を読解します。それは、人文書の内容の読解と、その社会的な現実存在の理解との連結です。当ネットワークは、本づくりのためにではなく、自らの本づくりのあり方を考え改革するために、まずは著訳者と編集者という当事者同士が出会う場として設定されました。私たちはこの作業を通して新たな現実的知性の発見を目指します。このニューズレターはこうした私たちの活動の一部をご紹介させて頂くものです。

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コメント / トラックバック2件 to “「亜周辺と知識人―甦るウィットフォーゲル」 湯浅赳男”

  1. akizukiseijin said

    ◆アジア的専制主義と近代国家の関係

    <国家>という概念の再検討

    従来のヨーロッパ的国家観…まず市民社会の経済の発展があり、その結果経済的支配階級(ブルジョア)が生まれ、国家を成立させる。

    <アジア的生産様式>

    アジアから見た新しい国家観…外敵の勢力(遊牧民など)が農耕民を征服し、その被支配民を使役して灌漑治水事業を行うことによって飛躍的に農業生産を高める。ここに文明の起源がある。

  2. akizukiseijin said

    文明の亜周辺に民主主義と資本主義は発生する。このことを世界史の文脈で、捉え直す新しい政治学が必要だ。

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