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Shota Maehara's Blog

ロマン主義と自由主義

Posted by Shota Maehara : 10月 5, 2008

ロマン主義ということでいいますと、現在では、そういう言葉で語られていないものが実はロマン主義なんですよ。ロマン主義とは、啓蒙主義への否定としてはじまっている。啓蒙主義が合理主義であるのに対して、そういう理性や主体の優位を否定するのがロマン主義だとしますと、今日はやってる議論はほとんどロマン主義的なんです。たとえば、人間の知性が意識できるのはわずかの部分であって、慣習や制度という意識せざる領域に依存しているのだということを、保守派のイデオローグがいいますが、これも典型的にロマン主義的です。一八世紀にエドマンド・バーグがすでにそうでした。それから、ハイデッガーが存在論的に見出す「根源的構想力」のようなものもロマン主義的なものです。感性と悟性を根源的に媒介するものですから。
 一九九〇年の五月に、「安吾の会」というのが新潟であって、僕は中上健次や筒井康隆と一緒に出席しました。その結果として、永山則夫問題に抗議して、三人とも文芸家協会を辞めるということになったわけですが。その会で、僕より前に講演した筒井康隆がハイデッガーと安吾の共通性というようなことを語った。僕はそのあとに、それはまったく違うといいました。たとえば、「堕落」という言葉は、安吾にとってもハイデッガーにとってもキーとなる概念ですが、ハイデッガーの場合、人間が共同存在から離れ私的となることが堕落であり、それはロマン主義的なものです。安吾はそうではなかった。堕落とは、自らを突き放すような他者性に直面することです。ハイデッガーはナチであり、安吾は自由主義者でした。
 この意味では、安吾は、根本的に啓蒙主義的だったと思います。ただし、啓蒙主義自体にたいしても啓蒙主義的であるような徹底的な啓蒙主義者でした。彼は、知性の外にある無意識なものの力を認めていましたが、なおそれを解明すべきだと考えていた。僕は、結局こういう姿勢以外はありえないと思っているんです。アドルノのようなマルクス主義者も、ラカンのようなフロイト派もそういう姿勢をつらぬいている。(柄谷行人「安吾の可能性」/『坂口安吾と中上健次』講談社学術文庫、二〇〇六年、p.295-6)

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