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Shota Maehara's Blog

民主革命の光と影―『革命児サパタ』

Posted by Shota Maehara : 10月 4, 2008

1.

民主政治とは何かを考える上で、一九五二年に公開されたエリア・カザン監督の『革命児サパタ』は、極めて興味深い作品である。この作品は、一九一〇年に始まったメキシコ革命を舞台にして活躍した農民の指導者エミリアーノ・サパタの半生を描いたものである。

 

2.

メキシコは三四年間独裁者ディアスの圧政に苦しんでいた。ある日、先祖代々受け継いできた土地をの大農園主によって囲い込まれた農民たちは大統領に直訴に行く。裁判に訴えれば済むという大統領に対し、裁判で農民が勝ったためしはないとサパタは詰め寄る。彼らは自分達の土地であることを証明する境界石を見つけるよう言われるが、中へ入る許可は下りない。仕方なく、彼らは無断で中に忍び込むが、私兵に銃で追い払われ、サパタらは山に隠れる。

こうした折、アメリカのテキサスに逃れていた革命家マデーロは、武力蜂起を計画する。そしてサパタに南部戦線での協力を求める。やがて、革命は成功し、サパタは新政権の下で将軍に任命される。そして思いを寄せていた豪商の娘ホセファと結婚するのだった。幸せの絶頂にあるはずのサパタだったが、なぜか表情が晴れない。その理由を聞くホセファに、明日マデーロと会見するが、自分は文盲だから不安なのだと答える。そしてサパタは彼女から聖書で読み方を教わるのだった。

やがて、サパタはマデーロと会見する。そこで農民の土地を返還する約束を迫るが、マデーロは慎重な態度を崩さない。いらだつサパタは、農民の兵隊を連れて村へ帰ってしまう。革命政権は発足したものの官僚や軍部は、以前のまま残った。こうしたなかで、将軍ウエルタは反革命を目論み、密かにマデーロを殺害し、サパタに狙いをつける。ここには民主化を求めながらも、知識階級出身のマデロと農民出身のサパタとが何が民衆のためになるかに関して微妙に交錯する姿がリアルに描かれている。

ついに困難の末、農民兵を組織したサパタはウエルタ将軍を倒し、大統領に就任する。戦いに明け暮れる日々から解放され、慣れない公務をこなす。そこへある日農民たちが訴えに訪れる。驚くべきことに、一緒に戦った兄ユーフェミオが農民の土地や妻を奪い屋敷を占拠しているという。信じられないサパタは、いづれ何とかすると答える。だが、収穫は待ってはくれない、今すぐでなくてはと青年が詰め寄る。怒ったサパタはすぐさま彼の名前を紙に書き付けようとした途端、それがかつてここに訴えに来た自分と大統領の姿に重なる。民主革命を成就した自分が、かつての独裁者そのままになっていた現実を目の当たりにし、村へ還ることを決意する。

兄はまるで別人のように荒んだ生活を送っていた。お前が戦功の見返りに土地も金も求めないために、自分は惨めな暮らしを強いられている。なぜ手柄を立てたものが褒美を取って悪いのか。だから自分は奪ったまでだ。こうした兄の言葉にサパタはうな垂れてしまう。人間はかくも権力に弱い生き物なのか。次の引用はこの時、うな垂れたサパタが自分に語りかけるように農民に語る印象的なセリフである。

この土地は君たちのものだ。君たちで守らなきゃダメだ。守らなきゃ奪い取られる。自分や子供の命を懸けてでも守れ。敵はまた戻ってくる。甘く見たらダメだ。家を焼かれたらまた立て直すんだ。作物は植え直せ。子供が死んだらまた産め。谷を追われたら山に住むんだ。指導者に頼るな。ガッカリするだけだ。完ぺきな指導者などいないし、人間は変わるものだ。見捨てることも、死ぬこともある。頼れるのは自分だけなんだ。強い人間は最後まであきらめない。

自分は理想を掲げ、民衆と共に革命をおこした。その結果圧政から解放されたはずが、支配者と被支配者の関係はいまだ残り続けている。武を持って武を制しただけでは何も変わらない。本当の敵は自分自身の中にいるが、また同時に本当の味方は自分自身だけなのだ。そう彼は語りかけているように見える。このシーンの直後、兄ユーフェミオは銃で撃たれ息絶える。そしてサパタもまた敵の罠にかかって命を落とす。それでもサパタがいつか戻ってくると人々は信じつつ映画は幕を閉じる。

 

3.

さて、この映画は一見すると民衆が指導者に頼らず、自分達で自分達の土地を治めていかなければならない。それが民主政治の理念であると訴えたいかのように見える。つまり、民衆による自治こそ民主政治の根本であると。こうした考えは古くから存在してきた。極めて古典的な民主政治観であると言っていい。

例えば、アメリカの言語学者にして反戦運動家のノーム・チョムスキーは、彼の著書『メディア・コントロール』のなかで民主主義社会に対する典型的な二つの見方を取り上げている。一つは民衆が自分で国を治めるべきだという意味での〈参加型民主主義〉。そして、統治はエリートの仕事であり、民衆は彼らを選挙で選びさえすれば良いという意味での〈観客型民主主義〉である。いうまでもなくチョムスキーは、前者に依って後者を批判している。

しかし、このような民主政治の単純化は果たして真実であろうか。またそれはチョムスキーの政治的立場を正しく要約しているだろうか。私は敢えてこのような民主政治観は全体主義やファシズムへと道を開くものであると指摘する。国家官僚やエリートに対して、民衆の万能や無謬を主張する立場も等しくロマン主義的である。これはまさに主人と奴隷が入れ変わるだけの弁証法的な転倒に過ぎない。この先人々にどんなに多くの情報や知識を与えたとしても、我々はすべての国民を啓蒙することなどできはしない。むしろそのような国民が国政を担えば、政治が立ちいかずに必ずや独裁に道を譲るだろう。

さらにルソーの民主論やアメリカのやタウンシップを見れば明らかなように、その農本主義的性格は明らかである。つまり、個人が個人とならずに狭い共同体の中で自給自足の生活を営むのを良しとする考えである。これは無政府主義者の考えとも近いものがある。いずれにしても民衆の力への全幅の信頼は、個々人の努力や能力による差と言うものを認めない。誰でもそうなれるというなら、優れた人などは本来あり得ないと言うに等しい。平等を主張するあまり、優越した個人の存在を無視してしまっているのだ。その意味で、民主主義者も社会主義者も人民の名の下に、個人の自由を抑圧してしまう危険性を持っている。

この『革命児サパタ』という映画が真に感動的なのは、単に指導者に振り回されず自分達で土地を治めるのが民主主義だと言っているからではない。むしろこれまで述べてきたようにそのような見方は有り触れている。そうではなく、実は武器の力に訴えたサパタが、文盲であり、それゆえの自分の無知を恥じているからだ。言うまでもなく恥じることは知性の証しである。サパタは身を守るために武力は必要不可欠と考えつつも、善なる政治を行うためには、他人に頼らずに、自ら学び、自ら考える個人が一人でも多く現れることなくしては不可能であると考えている。

こうした彼の認識は、カントの自由主義の思想に通じている。特に彼の『啓蒙とはなにか』を想起させる。カントはこの著作の中で啓蒙とは究極的に他人への啓蒙ではなくて、自分自身への啓蒙であると述べている。そして、もし人間は<政治的な動物である>というアリストテレスの言葉が今日も真実ならば、この自己啓蒙こそは人間が人間であるために不可欠の条件なのである。

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