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Shota Maehara's Blog

音楽演奏とアソシエーション

Posted by Shota Maehara : 10月 1, 2008

1.

日本では聖徳太子以来、「和をもって尊しとなす。さからうこと無きをむねとせよ。」という精神が重視されている。これは「和の精神」とも呼ばれ、原典である十七条の憲法から離れて独り歩きしている。この部分だけが広まったことは、逆説的に、日本人の心の奥深くの機微に触れているからだと見ることができる。

例えば、会社で会議の時に、全会一致を重んじるのが日本の通例だ。そのため、会議までに各部署の意見を集約しておくべきだとされる。会議の時間の効率化を図るためだということが表向きの理由だが、そんなことでいちいち意見が割れるようでは会社が一つにまとまっているとは言えないという本音が裏にある。

こうした日本人の心にすとんと落ちてくる「和の精神」に対して、論語にはそれとは異質な次のような言葉がある―「君子は和して同せず、小人は同じて和せず」。この「和して同せず」の精神は、個人が全体のなかに埋没することなくいかにして一致協力していくかという孔子の精神を見事にとらえたものである。

例えば、アメリカの会社では、会議が始まって誰も異論を出さない時は、会議を一時中断させて仕切り直す所もあるという。なぜなら全会一致は、事業が成功するか否かが検証し尽くされていない表微(しるし)だと考えるからだ。アメリカ人が必ずしもそうとは言えないが、個人を基本とし、互いに異論をたたかわせることで本当の答えがでてくるという対話の理念を尊重しているからだ。

 

2.

こうしてみると集団主義か、個人主義かという従来の問いは偽の問いであることがわかる。日本人は同じ考えの人とでなければチームは組めないという村的な考えに陥りがちである。だが、他者を尊重するリベラルな個人は「和して同ぜず」の精神を持って、連帯していくことができる。

実は、その最たる例は、ポップ、ロック、ジャズなど音楽のバンドである。音楽活動の経験のある人には自明なように、音楽の演奏はリーダーの命令に、部下が手足となって働くのではない。また、話し合いの席で、一人の人の意見が絶対であとはその人の話をうんうんと頷いていればいいのとも異なる。むしろ、みんなが同じ能力や才能を持っていては駄目で、それそれがヴォーカル、ギター、ベース、ドラムス、キーボードなどでそれぞれの個性を発揮する。そして一つの音楽を創り上げる。

確かに、ここまでなら日本の組織やチームもさして違わないという反論があり得るだろう。つまり、ピラミッド型の権力構造から、水平的なネットワーク構造に移行しつつあると。しかし、音楽で最も重要なのは各メンバーの楽器の音を一定時に同期(シンクロ)させることにある。いわゆる「リズム、メロディー、コンセプト」が音楽の三大要素ともいわれるが、全メンバーが通奏低音のように一つのリズムを体感し、それにワン、ツー、スリー、で合わせる。各自は自分のプレーに集中しつつも、リズムやグルーブを感じていなければならない。そしてライブでは即興演奏も行われる。

 

3.

組織論は構造論に終始するものではない。いかに水平的なネットワークにしてみたところで、同じ顔が横に並んでいるだけでは意味がない。ここに個人の自由というものを軽視して和を重視する日本の組織の根本的な欠陥がある。それに代って私が提唱する「和して同ぜず」の精神は、お互いが能力や個性の差異を認め合って、自分と仲間の間を横断する。それはあたかも酔いつつ醒める、醒めつつ酔うという名人芸の如くである。こうした社会形態こそ自由主義者によるアソシエーションと呼ぶに相応しいものである。

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コメント / トラックバック2件 to “音楽演奏とアソシエーション”

  1. 面白いのが、組織内では村思考の人が、

    趣味でバンドなど組むと、壁は一瞬で崩れ、個のぶつかりあい・切磋琢磨を、自然と、それが醍醐味とばかりに、やってのけるトコロ。

    日本人の柔軟さは埋没してるだけで、消えはせず、しっかり残っているのかな と。

    しかし 習慣を変える=メンドい・孤立の恐れetc..=現状維持。
    極少数ではあるが、どんどん論戦させる組織長もチラホラ。

    渡邊みきお社長・高橋がなり前社長etc…長が陣頭指揮を取れば・・・。

  2. akizukiseijin said

    dbadminさん、ありがとうございます。実は日本とイギリスは地政学的に似ていて、海洋国で、文明の末端に位置しています。アジアの極東である日本はいちはやく近代化に成功しました。これはやっぱり日本人の柔軟性を示すものと言えますね。だから、日本には時々イチローみたいな個人がでても不思議ではない。ただし、ほぼ海外に渡ってしまいますが。アジアではもっとあからさまに、民主政治の名の下に、個人の自由や言論の自由すらが抑圧されるケースが間々あります。例えば、中国も正式には中華人民共和国で、本当は人民のための国として出発したはずなんですけど…。アジアは、自給自足的な農村を基盤にしていますから、民主主義は好きでも、個人の自由というものは切り捨てる傾向があります。二一世紀にアジアのデモクラシーを語る上で、それがグローバル社会が安定要因となるか不安定要因となるかはここにかかっていると思います。

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