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Shota Maehara's Blog

日本における自由政治評論の試み

Posted by Shota Maehara : 9月 29, 2008

1.

私は大学時代ある教師から掛けられた思いがけない一言を今も忘れることができない。いわゆる不真面目な学生であった私にとって大学の単位を終了する最大の鬼門は、何といっても語学のカリキュラムの多さであった。第一外国語である英語はもとより、第二外国語を習得しなくてはならない。それがほぼ毎日続くわけだが、大学の語学はなぜか朝一の授業がきわめて多い。

大学入学以来不健全な生活にかけては学内でも一、二を争う私は当然、朝の時間には間に合わず試験を受けるどころか、出席数が足らずにあえなく毎年落とされていた。そして、今年こそはと決意した四年の春、二年生に交じってあたかも同級生である顔をして授業を受け始めた。それは女子学生が大半を占めるフランス語の授業でのことであった。

当初ドイツ語の固い雰囲気になじめなかった私は、途中からフランス語に変更して授業を受けていた。それでも二回も単位を落としていたため、試験間近になると胃がきりきりしてきた。フランス語の授業は私にとって一種のトラウマになっていた。それでも三度目の一夜漬けで、何とか順調にパスし続け、いよいよ最後のリーディングの試験へ臨んだ。

しかし、このリーディングの試験こそは最後の難関であった。なぜなら、この科目の女性講師が出席を取らないのを良いことに、私は授業を休みがちだった。そのため学習した内容に所々空白があった。そんな時、天の助けとも言うべきか、他の女子学生の懇願が聞き届けられ、試験には辞書とノートの持ち込みが許されることになった。実際私は、ノートなどまともに取っていなかったが、前日に試験に出そうな所を片っ端から調べつくしてノートに書き込んでおいた。

いざ、試験が始まるとそれまで心配は杞憂であることがすぐに分かった。試験はかなりリラックスした雰囲気で始められ、二、三枚の簡単な問題用紙が配られた。試験は無事一件落着し、ほっと安堵の溜息をついていると試験問題を回収しながら先生は、私たちにこう言われた。

「どう、みんなできましたか?」

「試験なんて大したものじゃないでしょ。もっと気楽に構えなさい。」

「人生はね、適当に生きるくらいが良いんですから。」

2.

何度か授業に出て知っていたことだが、先生は日本の大学を出て、ソルボンヌに留学された。そしてフランスが好きで、そこに居つきとうとう十年位の時を過ごした。彼女はそこで見聞きしたソルボンヌの学生の話を合間に挟んだ。フランスでは学生はかなり優遇されている上、寮などが完備されているので古いながらも安く生活できる。だから彼らの中には結婚して、子供までいるのに学生の身分のままでいたりする。随分のんびりした生活だなと思うと同時に、そこには学問や芸術を生み出す自由な余地が社会に残されているなと強く感じたものだ。彼女もそういう自由な雰囲気に強く惹かれたのだと思う。

「人生は適当に生きたらいい」という言葉の重みを本当に理解できる日本人が一体どれほどいるだろうか。個人の自由や言論の自由が自分勝手なものと同一視されている日本社会にとって、「自由」とは何を意味するだろうか。人間は、一人で考え、判断し、それに基づいて行動するからこそ、その結果については誰にも責任転嫁できない。だから、実は個人として考え生きることは時としてとてもつらく、責任が重い。その孤独と責任に個人は耐えていかなければならない。翻って、みんが言っていることを自分も一緒になって言っていれば、楽であるし、心の安らぎが得られる。万が一その意見が間違っていた時も、自分が責任を負わなくても済む。どうせみんなが間違っていたのだからと。これでは自己責任とは無縁である。

だから今の日本に足りないのは、公共心という言葉の下にみんなに合わせて生きるという楽な道ではなく、、逆に個人の自由を確立するという厳しい試練を自らに課すことなのである。西欧は二百年の伝統によって、こうした考えを自らの頭と体に血肉化してきた。実は私は、アメリカ社会をはじめ、アジア社会の民主政治の混迷や不安定の根源には、こうした個人の確立に基づいた自由政治が衰退もしくは不在であることに起因すると考えている。

3.

では民主政治と自由政治の違いとはなにか。イギリスの政治評論家ウォルター・バジョットは、その違いを次のように説明している。

自由政治は自治である。すなわち国民が、国民によって統治することである。この種の政治の中で最良の政治は、国民が最良であると考える政治である。もちろんイギリス人のインド支配に見られる圧制的な政治といえども、善政を行う可能性は大いにある。その政治は、被支配民族よりもいちだんと優秀な民族の考えを表明することもありうる。しかし、それゆえに、それは自由政治ではない。自由政治というものは、国民が自由意志によって選択した政府に服する政治である。ばらばらの民衆が偶然的に集まってつくる自由政治は、たかだか民主的な政治にしかなりえない。他人のことを知らないし、気にかけないし、尊敬もしないという場合には、すべての人間が平等であるにちがいない。その場合、誰の意見も、他の意見より有力であるということはない。しかしすでに明らかにしたように、尊敬心をもった国民は、独自に政治構造をつくっている。そこでは特定の人々が、共通の同意によって他の人々よりも賢明であると考えられている。またその意見は、同意によって計数的価値を越えた大きな価値を認められている。――バジョット『イギリス憲政論』(世界の名著60、中央公論社、p.193-4)

 

上記のバジョットの指摘を簡単にまとめると次のようになるだろう。

[1]自由政治=他者の優越を認め、優れた他者を尊重する考え→良いものは良いと認めることのできる政治

[2]民主政治=すべての人は平等であるという考え→誰も、自分の意見以上に優れているとは認めない政治

 

バジョットは他者に対する「尊敬心」を欠けば、民主政治は必ず堕落すると警告する。なぜならば人を尊敬する心がなければ、我々を導く指導者もまた尊敬心を欠いた人気取りとなる恐れがあるからだ。たしかにバジョットはあくまで保守主義的な立場から発言している。それゆえ、彼は民主政治よりも貴族政治を追慕している。しかしそれ以上に重要なのは、彼が世界で最も個人の自由が確立した国イギリスの自由主義(リベラリズム)の伝統に立っていることである。

他者に対する尊敬心は、自由主義のアルファでありオメガである。なぜならば、個人の自由を誰よりも重んじる人間は、他者の自由を踏みにじり、彼の人生に介入することはしてはならない越権行為だと考えるからである。本人の人生である以上最後に決めるのはその本人自身である。したがって、相手がいかに自分と異なる思想や信条を抱いていようとそれを認めた上で議論し合うことができる。これこそが議会政治の根本を支えている自由主義の思想なのである。

4.

いま、日本だけでなく世界の民主政治は危機を迎えている。あらゆる国家は、その採用している政治形態にかかわりなく、ファシズムや独裁へとすべり落ちる危険性を抱えている。これはナチスドイツやソ連のスターリニズム、そして日本の天皇制軍国主義、そしてイスラムの原理主義やアメリカの超大国化を見ても明らかである。この根幹には権力や暴力によって他者の存在を抹殺しようとする反自由主義的な考え方が潜んでいる。私のこの評論は、自由主義の立場から論陣を張り、揺らぎつつある市民社会の根幹である個人の自由を日本に再導入しようとする試みの一つに他ならない。

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コメント / トラックバック2件 to “日本における自由政治評論の試み”

  1. 摩子 said

    秋月さんの主張は日本に今とても大切なものだと思います。ジャーナリストも学者も本当の言葉を紡いでいるとは言えません。この国はどうなってしまうのか。真剣に考えなければと思います。

  2. akizukiseijin said

    摩子さんありがとう。いつも励まされています。頑張ります。応援よろしくお願いします。
    いつも素敵なコメントをありがとう。ではまたね(礼)。

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