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Shota Maehara's Blog

第5部 チェーホフのドラマツルギー―人間の複数性について

Posted by Shota Maehara : 5月 29, 2008

私の知る限りチェーホフと同様に人間や現実に潜む多様性を「関係の偶然性」という観点から眺めた作家が日本にいるとしたらそれは夏目漱石である。それは彼の半自伝的な作品『道草』の中で典型的に示されている。漱石こと健三は、海外留学から帰ってきて、大学の教師となったが、そこへかつての養父島田が金を無心にくる。彼と出会うたびいやな胸騒ぎがする。

なぜなら、幼年時代養父母に育てられ、実の両親を祖父母だとおもって成長してきたかつての自分の不安が蘇ってくるかのようだからである。以来、彼はどうしても親と子の関係性における確かさの感覚が持てなくなる。人間が最初に生まれおちてくる家族関係の中において、自分はここの家の子であるという誰でもが持つ自己同一性(アイデンティティ)が健三には最初から奪われている。

したがって、『虞美人草』や『こころ』などの漱石の小説は、つねにある碁盤の目の中でチェスの駒として存在する登場人物と登場人物がたまたま与えられた役柄に基づいて、徐々に人物の意外な側面を浮き彫りにし、ドラマに動きや奥行きを持たせていくという構成をとっている。それ自体きわめて「劇」的であると言える。たとえば、『虞美人草』や『こころ』で描かれているのは、個人の恋愛感情に特殊な磁場を及ぼす「三角関係」である。そして『三四郎』では、チェーホフのことに何度か触れられていることも付け加えておきたい。

しかし、こうした二人の類似性は、漱石がチェーホフに影響されていたか否かではなく、彼がまさに当時の自然主義文学とは違う「リアリズム」を模索していたことに由来している。むしろ彼らに共通するのは、まるで自然科学者のような微細な観察者の眼である。『道草』の最後では健三に、チェーホフを思わせる次のような言葉で締めくくらせている―「世の中に片付くなんてものは殆どありゃしない。一遍起こった事は何時までも続くのさ。ただいろいろな形に変わるから他にも自分にも解らなくなるだけの事さ」。

漱石の文学はその多くが人間の内面性を扱っているが、それを人間に備わっているものとしてではなく、関係が変わることによって変化するものとしてとらえている。だから、読んでみると始めから終りまで主人公の内面に感情移入していく意味での快楽はない。むしろ視点が次々に移り変わって、まるで落語の寄席を聴いているような楽しさが感じられる。

ではいったい彼らは人間社会の構造というものが確固としたものではなく、それ自体不安定な偶然的なものであるという認識をどこから得たのだろうか。もちろんいわゆる近代文学への批判という共通の問題意識があったであろう。それに加えて、チェーホフやクンデラや漱石が二つ以上の国の間で生きて考えたコスモポリタン(世界市民)であった事実である。マルクスが観念論の隆盛するドイツを離れ、経験論を重んじるイギリス渡り二つの国の間で『資本論』を書いたように、私は私であるということや机は机であるという自己同一性(アイデンティティ)の自明性は、別の文化や言語に身を置いてはじめて根底から疑うことができるからである。

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