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Shota Maehara's Blog

第3部 チェーホフのドラマツルギー―人間の複数性について

Posted by Shota Maehara : 5月 29, 2008

上記の短編『ともしび』の要約には、チェーホフ文学のリアリズム(現実主義)のエッセンスが凝縮して詰まっている。そもそもチェーホフ戯曲や短編には男女の恋愛の話がきわめて多く扱われているが、そのどれもがピースとピースが噛み合わず成就しない。いつもどこかちぐはぐで、タイミングを逸しているように思われる。そこにはシェイクスピアのロミオとジュリエットのような釣り合った男女のロマンもなく、したがって運命によって引き裂かれる悲劇もない。

むしろ、彼は恋愛というものを何か必然の出会いとして見るよりも、人と人とが偶然に出会い一つの関係を取り結ぶ一種の「劇」として見なしていたといえる。人間と人間の関係はつねに確定的なものではなく、本来劇の配役のように置き換え可能でありながら、何らかの偶然の重なりあいによって今の関係に納まっているにすぎないのではないか。しかし、そこにチェーホフは日々の生活に潜む人間の複数性の源泉を掘り当てたのである。

たとえばチェーホフは『恋について』という短編で、恋愛に象徴される人間関係のあり様を直接に主題として描いている。アリョーヒンは町で、地方裁判所の副議長ルガーノウィチと知り合いにあり、自宅に招かれる。すると、夫と親子ほども年の離れた若い妻アンナ・アレクセーエヴナと出会う。二人は中睦まじい夫婦でアリョーヒンにも親切にしてくれる。やがて彼らと親しく付き合う内に、アンナに魅かれ悩む。そして、彼は恋とは一体何なのかがまるで分らなくなり始める。彼はその時の感情をこう吐露する。

「わたしは不幸でした。家にいても、畑に出ても、納屋にいても、わたしは彼女のことを思い、あの若い美しい聡明な女性がほとんど初老といってもよい(夫は四十を越えていましたから)、退屈な男と結婚して、その男の子供を儲けているという秘密を理解しようと努め、一方では、あれほど退屈きわまる常識でものごとを判断し、舞踏会や夜会ではまるで売られに連れてこられたような従順で無関心な表情をして、誰にも必要のない萎れた姿で偉い人たちのまわりに控えている、あのお人好しで単純な、おもしろみのない男が、それでいながら、幸福になって彼女に子供を産ませる権利を信じきっているという秘密を、理解しようと努めました。わたしはたえず、なぜ彼女がわたしではなく、ほかならぬ彼にめぐり会ったのか、私たちの人生にこんなにも恐ろしい誤りの生ずることが、いったい何のために必要だったのかを、理解しようと努めました。」(原卓也訳)

アリョーヒンとアンナはお互いに魅かれあいながらも愛を打ち明けることができない。なぜなら、心の秘密を打ち明けることがお互いの運命にとって果たして良いことなのかどうか分からないからである。アリョーヒンは彼女の幸せな家庭生活に波風をたて、アンナはただでさえ気苦労の多いこの青年に不幸を増す結果にならないかと恐れたからだ。

いつしか沈黙の中で歳月は過ぎ、やがて別離のときが訪れる。夫のルガーノウィチが西部のある県の裁判所長に任じられて、その地へ赴任することになったからである。その汽車を見送る際、個室で二人の眼差が出会った瞬間、抑えていた気持ちが堰を切ったかのように溢れだす。二人は涙に濡れながら抱きしめ合いキスをして永遠に別れる。アリョーヒンは、「ああ、私たち二人はなんて不幸だったんでしょう!」と振り返る。本当に愛しているならば心配事なんて些細な問題だったろうにと。

ここにあるのも「関係の偶然性」を示す一例である。もし若い男が、釣り合いのとれた若い女と出会い恋を成就するのであれば、恋とは必然的なものであると言える。しかし、実際は、「どうしてこんな奴が!」と言いたくなるほどに、酔いどれの男に従っている女がいたり、わがままな女につくす男がいたり、そうかと思うと親子ほど年の離れたカップルがいるなど釣り合いがとれていない例は世の中では決して珍しくない。すると恋愛は誠に偶然の組み合わせであるとしか言いようがない。そこには「縁」としか呼べない何かがあるのだ。かくして彼の恋愛観に象徴されるように、チェーホフは人間というものが不意に訪れる他者との関係の中でつねに変化する可能性を秘めていることをわれわれに示しているのだ。

こうした観点を押し進めて、チェーホフは『六号室』において人間社会の偽らざる構造を抉り出そうと試みる。医師アンドレイ・エフィームイチは何度も精神科の患者イワン・ドミートリチの話を聞きに病室に通い続けるうちに今度は自分自身が精神病棟に入れられてしまう。だが実は医師アンドレイ自身が精神病患者のドミートリチとの会話でその理由を前もって予言している。

「じゃ、なぜあなたは僕をここに閉じこめておくんです?」

「あなたが病気だからです」

「そう、病気ですとも。しかし、あんたらの無学が健康な人間と病人の区別もつけられないために、何十人、何百人という気違いが自由に歩きまわっているじゃないですか。なぜ僕や不幸な人たちだけが贖罪の山羊のように、みんなの身代わりにこんなところに入っていなけりゃいけないんです?あんたや、助手や、事務長や、この病院の屑どもみんなが、道徳面ではわれわれのだれよりも、くらべものにならぬほど低級なのに、どういうわけでわれわれが入れられ、あんたらは入れられないんです?どこに論理があるんですか?」

「道徳面や論理はこの場合なんの関係もありませんよ。すべてが偶然によって左右されるんです。いれられた人は、閉じ込められるし、入れられなかった人は野放しだ、それだけのことです。わたしが医者であり、あなたが精神科の患者であるということには、道徳面も論理もなく、つまらぬ偶然があるだけなんです」(原卓也訳)

このようにゲシュタルトの地と図が反転するかの如く人間の役割がいつでも入れ換わり可能であるという事実は私を恐れさせる。パスカルがいうようになぜ私はここにいてあそこにいないのか、その根拠はどこにもない。私が平凡な男であって、犯罪者でないのはたんに幸せな偶然によってそうであるに過ぎないのではないか。たまたま貧しい生活を経験しなかったからなのではないか等々。結局は環境や状況が違えば、被害者が加害者になり、その逆もまたありえたのではないだろうか。

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