I am the vine; you are the branches

Shota Maehara's Blog

第2部 チェーホフのドラマツルギー―人間の複数性について

Posted by Shota Maehara : 5月 29, 2008

しかし、それにしても何の筋も主張もないチェーホフの戯曲や短編小説がなぜ読者を魅了するのか。まずこの核心に後期チェーホフの出発点となった作品『ともしび』に光を当てることから迫りたい。「ともしび」は、ロシアの大地に鉄道を敷設するための夜営地でわたしがたまたま一夜を明かすことになり、そこで働く技師アナニエフと鉄道学校の学生で男爵のフォン・シテンベルグと交わす会話が中心になっている。学生は、この夜営地に広がるともしびを見て次のような感慨を漏らす。

「はてしなくつづいているこのともしびが、いったい何に似ているか、わかりますか?このともしびは、僕の心に、とうの昔に死んでしまった、何千年も前の人たちとか、アマレク人やフィリスチン人の軍営のようなものとかを、思い起こさせるんですよ。(略)」

「かつてこの世には、フィリスチン人やアマレク人が生活し、戦いをまじえ、それぞれの役割をはたしていたんです、ところが今じゃ、彼らの跡さえも消えさってしまったんですからね。僕らだって同じことですよ。(略)」(原卓也訳)

こうした学生の虚無主義に対して、技師は「そういう思想はすてた方がいいよ…」と教え諭すように言う。なぜならそういう虚無だとか生のはかなさというものは人生が終わるときに見えてくるものであって、学生はまだそうした見解を抱くには若すぎるという。少しムッとした学生に対して直接には語らずに、わたしに向かって自分自身のある体験を語り始める。

それは技師がコーカサスへの旅行中立ち寄った故郷N市で幼馴染のキーソチカに再会した出来事であった。かつて可憐で仲間の憧れの的であった彼女には、いまやどこか憂いを帯びたような面影が見える。そして何よりも、母親としての忍従の表情がはっきりとあらわれ、それが少女時代から過ぎ去った月日を痛感させる。彼女は町に残った酔いどれと結婚し、男の子を出産したが一週間して亡くなってしまう。技師は彼女の家に連れていかれ、一夜のアバンチュールを夢見るが、それも所詮は儚い夢と知る。彼女はこの町や自分自身に絶望しつつも次のような言葉をつぶやく。

「人間だれしも、運命によって定められたものに、耐え忍んでいかなければならないんですものね…」(原卓也訳)

技師はこの言葉に胸を締め付けられ、彼女を彼の泊まっているホテルに連れていくと、明日の正午に町の公園で会い、明後日いっしょにピチャゴールスクへ発つことを約束してわかれる。だが、その後で言いようのない不安に襲われて結局、キーソチカを残して夕方には町を離れ、汽車に乗る。彼は苦しみ抜き、この状況において自分の思想が何の役にも立たぬことに愕然とし、次のことを悟る。

「…わたしは、自分の思想など一文の価値もないことや、キーソチカと会うまでは本当に思索していたのではなく、まじめな思想なるものが何を意味するのかという理解すら持たなかったことを、悟ったのでした。いまや、苦しみ抜いた果てに、わたしは、自分には信念も、特定の道徳規範も、人間の心も、理性もなかったことを悟りました。(中略)これまでわたしが、嘘をつくことを好まず、盗みも働かず、人も殺さず、明らかに手ひどいとわかる過ちをしなかったとしても、それは別にわたしの信念の力によるものではなく(そんなものは、もともとないんですからね)、ただ、わたし自身ばからしいと思いながら、いつしかわたしの血や肉にしみこんで、知らず知らずのうちに、人生におけるわたしの行動を支配していた乳母のお伽ばなしや、陳腐な道徳観によって、手足を金縛りにされていただけの話なのです。」(原卓也訳)

学生はこんな話で誰かを説得した気になっているかと腹立たしげに眉をひそめて自分のベッドに入ってしまう。技師とわたしの二人は夜営地のバラックを出てともしびを眺める。すると技師はしばらく黙っていたが、わたしに次のように語りかける。

「男爵先生は、このともしびがアマレク人を思いださせると言ったけど、わたしの感じじゃ、人間の思想に似てますね…そうでしょ、一人一人の人間の思想も、ちょうどこんなふうに、とりとめもなく散らばって、闇の中を一つの線に沿って、どこか、はるかに遠い老年のかなたへ消えさっているんですよ…しかし、哲学はもうたくさんですな!もう、おやすみにしましょう…」(原卓也訳)

次の朝、昨夜ともしびの輝いていた平野や、線路沿いのバラックからぞろぞろと起きだしてくる工夫たちを眺めやりながら、≪この世のことは何一つわかりっこないんだ!≫と心の中で繰り返しつぶやく。そして馬に鞭をあて、この地を後にするのである。

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