サイード『知識人とは何か』―「再帰せる野蛮時代」(ヴィーコ)を生きる知識人
Posted by Shota Maehara : 5月 28, 2008
- 作者: エドワード・W.サイード, Edward W. Said, 大橋洋一
- 出版社/メーカー: 平凡社
- 発売日: 1998/03
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
サイードの仕事は、『オリエンタリズム』に示された様に、文学者(知識人)と帝国主義支配の共犯関係を暴くことに向けられた。しかし、後にサイードは「知識人」と言うものを再び肯定的に捉え、自らその役目を引き受けようとする。ここに後期サイードの転回があるといっても言い過ぎではない。
たとえば知識人の代表格でありそれゆえ攻撃の的になるサルトルは文学者であり、「普遍的」な価値があることを主張していた。それに対して、フーコーは「普遍的」知識人という存在を疑い、グラムシを援用しつつ今や生産関係から超越した司祭型の「伝統的知識人」よりも、「有機的知識人」を重視したように見える。それは手に職を持ちつつ、そこから世界がどう見えるかを訴えるような複数のシステムに属している生活者+指導者のことである。工場労働者でありオピニオンリーダーでもある者だけが大衆文化の何たるかを語れる…。
しかし、サイードはこうしたグラムシの知識人像を受け継ぎながらも、なおも「普遍的」価値を追求することにこだわる。それは一見語義矛盾であるが、人間や知識人の終りを宣言したフーコーさえも街頭デモに率先して参加(アンガージュ)したことを思えば奇異ではない。実はサイードの言う知識人とは「批評性」そのものである。つまり一つの価値システムを自明視せず、外からそれを批判する単独者=亡命者。それは聖ヴィクトルの引用―「故郷を甘美に思う者はまだ嘴の黄色い未熟者である。あらゆる場所を故郷と感じられる者は、すでにかなりの力を蓄えた者である。だが、全世界を異郷と思う者こそ、完璧な人間である」に見事に言い表わされている。
コメントを残す