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Shota Maehara's Blog

アドルノ&ホルクハイマー『啓蒙の弁証法』

Posted by Shota Maehara : 5月 28, 2008

啓蒙の弁証法―哲��的��想 (岩波文庫 青 692-1)

啓蒙の弁証法―哲学的断想 (岩波文庫 青 692-1)

何故に人類は、真に人間的な状態に踏み入っていく代わりに、一種の野蛮状態へ落ち込んでいくのか―『啓蒙の弁証法』序文

人は誰しも自分の価値観や基準にしたがって世界を把握したり、 国を治めたりしようとする。そこから人は自分の立場だけは不偏不党で中立だと見なしたがる。それゆえに自ずとその基準からもれる人や価値を誤謬だと判断し、非難してしまう。

伝統的に西洋哲学はこの「同一性」(アイデンティティ)に基づいた体系を重視するあまり、ここからずれる差異(非同一性)を無視し、時には抑圧して成立した。それはあたかも無意識の中に複数の人格が抑圧され、統合されたものが「私」として存在するようなものである。だからそれを一概に否定することはできない。

だが、近代にはこうした合理性を追求する姿勢が徹底化され、すべてを公正で効率的と見える基準やルールで覆い尽くそうとする動きが加速し始めた。そうした文明化の果てに、人間はふたたびファシズムによるユダヤ人迫害・虐殺といった野蛮状態へと落ち込んだのである。

それゆえ、理性がこれを防ぐためには、自己の認識の限界を知った上で、反証してくる他者(自分と価値を共有しない者)との対話によって自らの正しさを解明し続ける永遠の啓蒙主義的態度が不可欠である。それは本書の言葉でいえば、啓蒙とは他人に対する啓蒙から、自分の理性に対する啓蒙に向かわざるを得ない。これが「啓蒙の弁証法」なのである。

具体的に言えば、近代科学はまず自ら仮説を立て、次にこれを実践(実験)によって証明する。そうして反証してくるデータを基に、仮説を修正して理論を打ち立てる。こうして科学は徐々に不可知な領域への認識を拡張していくことができるのである。こうした科学的な態度こそ啓蒙の弁証法の例証である。

何かを認識するためには異質な要素、いわば他者が必要であるという考えは、極めて実践的(倫理的)な動機がうかがえる。彼の哲学が西洋の同一性に閉じ込められた哲学の伝統を超えられたのは、おそらく「アウシュヴィッツ以後」を自らの哲学の原点にしたからである。では「ヒロシマ・ナガサキ以後」を原点にした日本の哲学が生まれないのは何故か。平和憲法を守るべきか否かを考える意味でも、原爆以後人はいかに哲学することができるのかを考えるべきではないだろうか。

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