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Shota Maehara's Blog

私の信仰告白―アンチ・ヒューマニズムとしてのヒューマニズム

Posted by Shota Maehara : 5月 3, 2008

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1.最後の瞽女・小林ハル

先日、某テレビ番組で小林ハルの何周忌かに彼女の小さな特集をやっていた。小林ハルは、一九〇〇年(明治三三年)に新潟県の寒村に生まれ、幼くして白内障により失明し、以後、生きていくために幼くして瞽女(ごぜ)と呼ばれる唄うたいの師匠の下に弟子入りすることとなる。

瞽女(ごぜ)とは、三味線を携えて村々を旅し、語り物・流行唄・民謡などを歌い歩いた盲目の女性を中心とした女旅芸人のことだ。ハルは指から血を流すまで三味線に打ち込み、ごぜ独特の唄声にするために寒い屋外で声を出してあえて喉を潰した。

そして姉弟子のいじめにも耐えてわずか九歳から旅回りをはじめ七三歳まで現役を続け、のち国の無形重要文化財いわゆる「人間国宝」となった。彼女の生涯の心の支えは、将来の苦難を見越し厳しく盲目のわが子を扱った母親の限りない愛情であった。晩年まで彼女は母と子の愛情を扱った唄を好んで唄いつづけた。

私が、この瞽女(ごぜ)という存在を知った時、いまだ社会に障害者のための保護がない時代に盲人はこうして生きる術を見出していたのだということに驚いた。いわばこれは自然のセーフティーネットだったといえるのかもしれない。

これを見て人はなんて昔は酷かったんだろうと思う。そして今は国が手厚く保護してあげるべきだと率直に感想をもつかもしれない。それが、より進歩したより人道的な政策だろうから。

しかし、我々の「人権」という考えや「民主主義」に基づく市民社会には罠が潜んでいはしないだろうか。弱者がいれば手厚く保護してあげるというのはなるほどもっともだけれども、そこには彼らへの薄い同情しかない。彼らの人格への敬意が欠けているがゆえに、そうした同情は人を傷つけもする。いわば見せかけのヒューマニズムでしかない。むしろ自分が死んでも一人で生きてけるように愛する娘を突放す母とその残酷な運命を受け入れる人間ハルの姿は、忘れてはならない大切な何かを語りかけてくる。

2.深沢七郎『楢山節考』

ここでその糸口を探るために、かつて深沢七郎によって書かれた『楢山節考』について触れてみたい。

ご存じのように、戦前の地方農村では貧しい食糧事情から人べらしのため「姥捨て山」に年寄を捨てる慣習があった。一般的には、姥捨ては、嫌がる祖父母を無理やり裏山へ捨てに行ったと考えられていたが、それに対して主人公の老婆おりんはせがれの辰平にはやく裏山へ捨てに行けとせがむ。母親の息子や孫への心づかいを知り、辰平は葛藤しながらも、やがて村の掟にしたがって実の母を背板に乗せて捨てに行くのである。

これはただ戦前日本の過酷な現実であるばかりではない。それは戦後の日本の市民社会の掟であるうわべだけのヒューマニズムもを打ち砕く何かがある。人を助けるという善意の対極にあるおりんの宿命的な死は哀れでも美談でもない。ここにあるのは他人のあらゆる同情や涙を拒む母の愛であり、なにより母の死をじっとこらえて見守る辰平の眼差しである。作者深沢は、主人公おりんとその息子を通して、貧困や戦争の時代に生きる人間は必ず善悪の彼岸を渡らねばならないこと、そしてその先にある人間肯定の姿をも示して見せたのだ。

言い換えれば、小林ハルと母、おりんとせがれの辰平は貧しさの中で、必死に自分たちの生き場所を切り開こうとしている。そして残酷さに耐えながらもけっして人間への信頼を失わない。いわばアンチ・ヒューマニズムとしてのヒューマニズムとでも呼べるものがここにはある。こうした態度にわれわれは強くこころうたれるのではないだろうか。

かつて、人が生きるということに今よりももっと真剣だった時代があった。すべての人には社会のなかで生きる固有の役割があり、貧しさの中であってもそれを認め合って暮らすことができた。だから、現代においてもたんに盲目の人を守るのではなく、彼ら自身の生き方がありうるはずだと信じたい。そして市民社会における男女平等という幻想に酔って啀み合うよりも、男と女が互いの違いや人格を認め合ってこそ楽しく生きていける社会に私は賭けたいと願う。

〝なぜなら、貧しさは内部から射すうつくしい光である〟―――ライナー・マリア・リルケ

(追記)

アンチ・ヒューマニズムとしてのヒューマニズム。善悪の彼岸を超えた先にある人間肯定こそ深沢七郎が『楢山節考』で描きたかったものである。そして、私もまたうわべだけのヒューマニズム拒否しつつ、ただこれだけは唯一の思考の拠り所として認めてもいいのではないかと思えるのである。

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コメント / トラックバック1件 to “私の信仰告白―アンチ・ヒューマニズムとしてのヒューマニズム”

  1. アンチ・ヒューマニズムとしてのヒューマニズム。善悪の彼岸を超えた先にある人間肯定こそ深沢七郎が『楢山節考』で描きたかったものである。そして、私もまたうわべだけのヒューマニズム拒否しつつ、ただこれだけは唯一の思考の拠り所として認めてもいいのではないかと思える。

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