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Shota Maehara's Blog

宮部みゆき『蒲生邸事件』―「まがい物の神」から「当たり前の人間」へ

Posted by Shota Maehara : 4月 24, 2008

蒲生邸事件 (文春文庫)

蒲生邸事件 (文春文庫)

今日は朝から雨が降り続いている。それでももう春だと感じさせる日も多くなってきたこの頃である。さて、今からちょうど七二年前、しんしんと雪が降り積もる一九三六年二月二十六日の帝都・東京では、日本が太平洋戦争へ転げ落ちる転換点ともなった陸軍の青年将校らによるクーデター・暗殺事件、いわゆる「二・二六事件」が始まろうとしていた。この小説の中心舞台はその現場からほど近い退役した陸軍大将・蒲生憲之の邸宅である。ここで、宮部は歴史的想像力を駆使しながら、タイムスリップした予備校受験生・尾崎孝史を登場させ、彼の肉眼から歴史をたんに結果から見るのではない彼女自身のユニークな視点をそっとさしだしてみせる。

一九九四年二月二五日、平凡な一八歳の青年である孝史は、親の期待を背負いながらも受験に失敗し、そのため予備校の試験を受けるべく再び上京する。宿泊先は、かつてと同じくホテルの墓場ともいうべき平河町一丁目のおんぼろホテル。そこはかつて旧蒲生邸の跡地であった。そのホテルの壁にはレンガ造りの洋館とその主人であった元陸軍大将・蒲生憲之の写真が飾られてあった。わきには、五八年前の明けがたに起こった二・二六事件と重なるようにして蒲生憲之が自決し、残された遺書には軍部への批判と未来の日本が辿る悲劇が先見の明をもって描かれていたとする説明書きが添えられていた。

だが、その夜、ホテルは原因不明の火事に見舞われる。もうだめかと思われた瞬間、孝史の前に現れたのは、その日同じホテルの客として宿泊していた謎めいた男「平田次郎」であった。燃え盛る火の手から逃れるため、彼らは異次元を抜け、帝都・東京にある蒲生邸の庭に降り立つ。そう平田は、時間旅行の特殊能力によって現代から二・二六事件前夜の旧蒲生邸へ孝史を救いだしたのだった。降りしきる雪の中を銃をもった兵士がザックザックと行進してゆく。やがて孝史はただならぬ事態に自分が巻き込まれつつあることに気づき始めるのだった…。

この四日間の陸軍将校の決起とその鎮圧の歴史的ドラマを背景として、異能力者であるがゆえの平田とその叔母の苦悩、蒲生邸での一族の確執、そこで働く女中・向田ふきへの孝史の淡い恋、それらが二六日に自決した蒲生憲之が使用したはずの銃が忽然と部屋から消えた出来事をきっかけにして微妙に交錯していく。歴史を変えることに絶望する平田、そして愛するふきの最後を知りその運命から彼女を救おうとする孝史、そして軍部独裁による日本の無残な敗戦の事実をあらかじめ父から知らされて生きる長男・蒲生貴之。

平田は自らをこう呼ぶ―オレは「まがい物の神」だと。なぜなら、時間旅行者は個々の歴史的事実を変え得たとしても、全体の歴史の流れは変えることはできない。なにより、あらかじめ結果を知った立場から、同時代の人々の愚かな生き方を批判する自分はたんに「抜け駆け」をしているにすぎないのだから。

ではなぜ平田はここに来たのか。安穏とした現代からこの危険極まりない戦時下へ。かつてあった日本人のぬくもりを求めてか。いや違う。平田はある一つの答えに辿りついたのだ。すなわち、この時代で生き続けること。歴史を高みから見おろすまがい物の神の立場ではなく、同時代の当り前の人間として手探りでこの時代を生き抜くこと。その時、歴史を知るがゆえに変わらないと知りつつ努力し批判もする叔母や蒲生憲之の態度を許し、同じく高みから歴史を見ることを余儀なくされた自分自身をも赦せるようになるかもしれないと平田は孝史に語る。

かくして、まがい物の神は、当たり前の人間となり、そして「赦し」に辿りつく。この宮部の視点こそ彼女自身の作品を照らすカギともいえる歴史の光学である。「まがい物の神」→「当たり前の人間」→「赦し」というこの移動は、新約聖書におけるイエス・キリストの物語を想起させる。イエスは神のひとりごとして、地上に降り立ち、人々と苦しみを分かち、その愚かさを身に受ける。最後には十字架にかけられながらも、すべてをお赦しになる。

後世のわれわれは歴史を結果から断罪する。しかしその時われわれもまた「まがい物の神」なのだ。そこで自分の傲慢さに恥じ入り、過去の歴史をもう一度「当たり前の人間」として生きてみよう。神としてではなく、一人の人間として同時代を生きてみてはじめて、その時代に生きた人たちの様々な善行や過ちも含めて、きっと赦せるときが来るのではないか。何よりも自分自身に対してもきっと赦せるときが来るだろう。歴史とは、どこまでも当たり前の人間として生きるほかない、そういうものだから。不思議なことに、そこにわれわれの未来への希望もまた生まれ得るのだ。

〝時は過ぎ去るとき、その痕跡を残す〟―――タルコフスキー 『サクリファイス』

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コメント / トラックバック2件 to “宮部みゆき『蒲生邸事件』―「まがい物の神」から「当たり前の人間」へ”

  1. 舞妓 said

    歴史を結果から判断するのではなく、事前の立場から考えてみることは極めて重要ですね。この歴史的視点は、日々のニュースに私たちが接するときにも当てはまりますね。なぜ、事件の当事者はこのような犯行に及んだのか。その結果に対して単に犯人の責任を追及し処罰するのが目的でなく、審理の過程でその背景を十分に明らかにしていくことが近代司法制度の存在理由です。それを裁判を迅速化するために早く審理を切り上げて済まそうと主張するならばただの仇打ちになってしまいます。だからこそ、裁判制度は被告からも原告からも独立しているべきなのですが、現在悲しいかな世論やマスコミに引きずられ気味です。特に、少年犯罪の場合、個人の責任だけでなく、その犯行まで至らしめた社会の構造や生い立ちが無視できません。この責任を無視して死刑を求刑することはできるだけ慎まなければならない。被害者の家族が犯人を殺してやりたいと思うほど憎むのは仕方ないことだ。だから殺せと一緒になって叫ぶのではなく、犯行に至らしめた要因をできるだけ突き詰めることで原告・被告ともが納得して刑に処せられるようにする義務が裁判所には課せられている。もちろん、それこそがこうした事件の再発を防ぐ糸口を指し示してくれるだろうから。

  2. miyoko said

    わ~素敵な書評ですね。私も宮部みゆきさんの作品は大好きです。でもこんな風にも読めるんですね(笑)。これからも楽しみにしています♪また遊びに来ます♪

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