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Shota Maehara's Blog

国家とヤクザの仁義なき戦い―「分権的ヤクザ」のすゝめ

Posted by Shota Maehara : 2月 13, 2008

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宮崎学はかつてグリコ森永事件で「キツネ目」の犯人とされ逮捕された経歴を持つ。結果的に後に誤認であることが明らかになったが、紛れもなくこの出来事がアウトロー作家・宮崎学を誕生させるきっかけとなった。

宮崎の仕事の眼目は、近代日本の市民社会や合理主義の抽象性を、ヤクザとして明日を生き抜くための原則から批判することにある。もともとヤクザは生きんがために寄り集まった社会の最底辺層の人々であった。それゆえに彼らは孤立した個人としてではなく、つねに互い生存のために死をも賭けて行動する強固な人格関係で結ばれてきた。

さらに興味深いことに、日本のヤクザは、伝統的に地域の顔役として揉め事を仲裁するなど、ある意味で「公的な」(パブリック)側面を持っていた。それゆえ、ヤクザは街のど真ん中に事務所を構え、「~組」という表札を掛け堂々と生きてきた。これはマフィアが身を隠して、地下活動しているのとは大違いである。

かくしてヤクザは、共同体に根ざし人々の生活の紛争を上手く治める社会の警察のような存在だった。ただし国家に認可された政治的権力ではなく、社会の必要性から自然発生的に現れた社会的権力であると言うことができる。

しかし、そんなヤクザも時代と共に国家と資本の力によって変容を迫られる。その最大の転機となったのが、バブル経済の崩壊と何よりも1992年の暴対法(「暴力団員による不当な行為の防止等に関する法律」)の施行である。宮崎も指摘するように、暴対法の意義はヤクザを罰することにあるのではなく、エリート官僚が市民社会からヤクザそのものを異物として排除することにあった。その結果、ヤクザは地域に根ざし、揉め事などの時には「顔役」ともなったかつて公的な性格を喪失し、追い詰められたあげくに経済マフィア化し、より凶暴化するほかなかった。

そもそも宮崎にとって、国家官僚による上からの近代化・中央集権化は、戦後50年たった今日その建物は土台から腐り始めている。もしその時、国家に対抗する力になれる勢力があるとすれば、それはありもしない「市民」などに依拠した運動ではなく、ヤクザのように共同体の生活に根ざした相互扶助組織であるという自負がある。こうした見方は、国家の中央集権化や専制に対抗できるのは、選挙などの民主主義的な制度ではなく、貴族や教会をはじめとする国家になびかない中間集団の存在だといったモンテスキューやトクヴィルの主張を想起させる。

それならば、拡大する国家の政治的権力や暴力に対抗するためにはいま何が必要なのか。それにはまず自らの中央集権的な官僚制組織によって肥大化した姿を払拭して、封建制のようにヤクザもまた再び地方分権化しなければならないと説く。これを宮崎独特の表現で、「分権的ヤクザ」と名づけている。こうした主張の背後には、ヤクザは近代国家に対抗できる唯一の暴力を保持しているだけではないし、またそうであってはならないという考えがある。逆説的に、近代に入って封建的遺物と切って棄てられた強固な人格関係で結ばれたヤクザ組織のなかにこそ、家族も職も国家の庇護も失った現代人を守りうる防壁があると見なしているからなのである。

近代ヤクザ肯定論―山口組の90年

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ヤクザと日本―近代の無頼 (ちくま新書 702)

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