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Shota Maehara's Blog

「教える」ということ―ヨナの物語を手がかりにして

Posted by Shota Maehara : 1月 26, 2008

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日々いろいろな人と接するなかで難しいなと感じることは、他人に何かを教えるということだ。確かに、それはAからBへの情報の伝達であると考えればさほど困難はない。しかし、教育の目的が、他人が「自ら考え判断できる」ようになることである以上頭ごなしにこちらの考えを押し付けることはむしろ彼らの思考力を奪ってしまうことになりかねない。

例えば、ある人が司会になってゼミ形式で自由に討論する機会を想像してみよう。特に司会者と参加者との間に明らかなる情報量の差がある場合、参加者は萎縮して押し黙ってしまい議論は進まない。そこで司会者が「何か発言してください」といっても逆効果である。まさに「北風と太陽」の話のように、ますます彼らを萎縮させるだけだからである。そこで見落されているのは他者に語りかける際の「語り方」の問題である。

聖書の中にある「ヨナ」の物語をご存知だろうか。神は、ニネベの街の悪に憤り、街を滅ぼさんとする。そこでヨナを遣わして神の怒りを彼らに伝えようとする。しかし、ヨナは神の命に背いて、船に乗って逃れる。すると海は荒れ、この原因が自分自身にあると悟ったヨナは神の怒りを静めるために彼を海へ投げ込めと船員に請う。かくして海に放り出されたヨナは、主の使いである大きな鯨に飲み込まれて三日三晩海を漂流する。最後にヨナの主への願いが聞き届けられて鯨はかれを陸地へ吐き出す。

ここまでが人口に膾炙した物語の要約である。しかし、実はこの話の続きにこそヨナの書の核心がある。ヨナは、この後ニネベの街に行き神の怒りを彼らに伝えた。すると、彼らは深く反省し、神の許しを請うたので、神は思い直して彼らを滅ぼすことを止めた。するとヨナはどうしてもその神の心変わりを理解できず、神に対して深く憤った。そこで街のはずれに小屋を建て神が裁きを下すのを最後まで見届けようとした。

すると神は、その小屋の上にとうゴマを植え木陰をつくり、彼の機嫌を直そうとされた。しかし、翌日とうゴマは虫に喰われ枯れてしまう。強い日差しに痛めつけられヨナは神の仕打ちに怒り、「生きているよりも死んだほうがましだ」と叫ぶ。そこで神はヨナにこう諭される。

あなたは、自分で骨折らず、育てもせず、一夜で生え、一夜で滅びたこのとうごまを惜しんでいる。まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない十二万人以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか。

この物語は一種の入れ子構造になっている。つまり、聖書とはそもそも神の教えを人々に分かりやすく伝えるために「寓話」(たとえばなし)を用いているが、ここでは、さらにヨナに向かって神がたとえ話を使って、神意を語りかけている。神と人間の間には埋めようのない想像も絶するような隔たりがある。そこで神が人に何かを伝えたいときには、こうした寓話を用いるのだが、ここで見逃されてはならないのは次の点である。つまり神が天上から人間に教えを垂れるのではなく、むしろ神が人間のいる地上までへりくだり、同じ目線からものを語りかけていることである。

人に何かを教えるということは常に困難である。だがそのとき、教えることと学ぶことの関係は上下関係でも水平的な関係でも駄目である。教えるものが、学ぶものの所まで降りてくること。これが最も大切なことなのではないだろうか。ときに師であり、ときに友として語りかけること。いうなればこの「斜めの関係」こそが教える者の最上のポジションなのである。

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