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Shota Maehara's Blog

アメリカ憲法の呪縛 [著]シェルドン・S・ウォリン

Posted by Shota Maehara : 12月 11, 2007

アメリカ憲法の呪縛

アメリカ憲法の呪縛

[掲載]2006年09月03日[評者]柄谷行人(評論家)

■人民の名のもとに国家権力を拡張

本書の表題は、直訳すれば「過去の現存」である。それはどのような「過去」か。たとえば、フランスの思想家トクヴィルは「アメリカには封建制の過去がない」と述べたが、そのような見方は、今でも強い。そのため、ヨーロッパでなら革新的と見えるような自由主義が、アメリカでは保守的なイデオロギーであるといわれる。しかし、本書において、著者はそのような見方に異議を唱えている。アメリカには、封建制という「過去」があったというのである。

といっても、著者が封建制というとき、それは土地所有や貴族的特権というような通常の意味においてではなく、封建制を中央集権的国家に対抗するもう一つの選択肢として意味づけたモンテスキューの理解にもとづいている。その場合、封建制は、求心的な画一化に対する多元的な分権主義を意味する。それは民主主義を、たんなる議会制度ではなく、さまざまな「中間団体」の連合に見いだすものである。著者は、この意味で、アメリカには「封建制」の伝統があったし、1776年の独立革命はむしろ、イギリスの行政の求心的合理化に対抗する、封建制的な対抗革命であったというのである。

しかし、1788年に憲法が成立した時点で、多様な分権的体制から統一をめざす集権的国家への転回が生じた。この憲法は、国家権力を制限する機能を果たすのではなく、逆に、人民という名の下に、国家主権の無制約な拡張をもたらすものである。この憲法にふくまれた画一的な集権化の意図は、南北戦争を経て実現された。さらに、国家権力が極大化したのは、1930年代の「ニュー・ディール」、つまり、国家による強力な経済介入の時期である。これは、大衆の喝采を浴びる民主主義的政治として実現されたのである。

本書が書かれたのは、1980年代、このような福祉国家主義を否定し、国家の公的な仕事を市場に任せるというレーガン主義が隆盛をきわめた時期である。それは、国家の介入を斥(しりぞ)ける、アメリカの「自由主義」的伝統の名のもとに推進された。しかし、こうした民営化は、国家を希薄化するものではまったくない。それは国家機構をより合理的に強化するだけだ、と著者はいう。地方分権を強調する新自由主義は、実際には、国家的統治を強化することを目指している。それは、国家と資本、政治と経済の結合を強化しながら、しかもそのことを隠蔽(いんぺい)するものである。

かくして、「合衆国に生まれつつあるのは、新しい形態の権力の全体化である」。著者の意見では、これに対抗するためにはやはり「民主主義」によるほかないが、真の民主主義は、新自由主義にも福祉国家主義にもない。それらは、人民の名のもとに国家権力を無制限に拡張する憲法の呪縛の中にあるからだ。アメリカの「草の根民主主義」は、政府や議会という代表制の形式にではなく、憲法以前のいわば「封建制的な」志向にこそある。ある過去の呪縛を脱するためには、選択肢としてもう一つの「過去」を見いだす必要があるのだ。

    ◇

The Presence of the Past 千葉眞ほか訳/Sheldon S.Wolin 22年生まれ。政治思想史。カリフォルニア大バークレー校、プリンストン大教授などを歴任。

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