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Shota Maehara's Blog

D・H・ロレンスとファシズムの親和性

Posted by Shota Maehara : 11月 18, 2007

D・H・ロレンスは一八八五年九月十一日、イギリスの炭鉱町イーストウッドに生まれた。父は炭鉱夫、母は技師の娘で、教養のある女性であった。つまり、父は階級的にはプロレタリアート(労働者)、母はミドルクラス(中流階級)に属していた。彼は自らの卑しい労働者階級の出自を嫌い、そこから逃れようとしながらも、ミドルクラスの見えない天井にぶつかるようにしてふたたび堕ちていかざるを得ない。この父と母の二つの階級の狭間を揺れ動くようにして、彼の小説の主人公もまた葛藤する。

では、なぜ彼はこれほどまで自らの出自を嫌ったのだろうか。それは労働階級の中にある、弱者の強者への「怨念」(ルサンチマン)と呼べるような、どろどろとした権力への欲望が渦巻いていると感じたからである。そして後に、その他者の優越を羨み、破壊したいという欲望こそが西洋文明の二つの柱ともいえる、キリスト教と民主主義の根幹にあると見なすようになる。とりわけ彼は、フロイトの精神分析学に学びつつ、西洋文明における性の抑圧にこそ、現代人が囚われている他人への嫉妬の眼差しの原因があると考えるに至る。

ロレンスにとって精神的な「恋愛」とは偽りであり、肉体的な交わりよってのみ人は愛を語りうる。こうした即物的な関係のみを彼は真実だと見なす。それ以外の一切の意味は幻想であると。実はこのことを真に知りうるのは性的不能者である。なぜなら、肉体的にも精神的にも健全な若者は、はじめから性交の可能性を剥ぎ取られた愛があり得るかという不安に怯えることもない。もし相手を肉体的に満足させ得ないならば、愛という実体のないものは自分の傍を通り過ぎて去っていってしまうのではないかと感じることもない。それはかつて子どもを産んだ夫婦が年老いて静かに慰めあって暮らすのとは根本的に違うのである。

ロレンスの文学が極めて重要なのは、キリスト教や民主主義が世の中を覆って、大衆がはびこり、世の中が閉塞感に覆われた時代において、人間と人間の関係、そして人間と自然の関係の根底に「性」の問題点を見出したことである。「性」とは何であるか。これは現代における政治の問題であり、経済の問題であり、そして文明の問題なのである。家族をはじめあらゆる人間の諸関係の中心に「性」があるということは、言い換えれば我々は「性」の欲望を介して、「他者」(自然も含めた)と出会っていることになる。

ニーチェやロレンスの思想の根幹に弱者や大衆の嫉妬(ルサンチマン)があるとすれば、彼らが「恋愛」(特に性)に着目するのも頷けることである。なぜなら、恋愛こそもっとも嫉妬の感情が露になる場面だからだ。恋愛とは他者の眼差しと密接な関わりを持っている。いわゆる三角関係に示されるように、もっとも嫉妬に燃える瞬間は、自分の恋人が他の誰かに盗られるかもしれないと恐れるときだ。そのとき当事者は、その第三者に嫉妬して、恋人をより惹きつけたいという衝動に駆られる。だが、それは愛ではない。嫉妬である。これがロレンスの一貫した主張である。

確かに欲望とは、結局他者の欲しているものを自分も欲しているに過ぎない。その意味でヘーゲルは欲望とは他者の欲望であると述べている。結局このループを断ち切らない限り、人は他者の欲しているものを欲し、その結果戦争は絶えないであろう。それは人間のもつ権力への欲望であり、支配への欲望である。

しかし、ここで見逃してはならないのは、こうした観点が誰しもが権力の地位につけるという建前を与えられた議会制民主主義の時代においてはっきりと見出されたということだ。したがって、ルソーがはっきりと認識していたように、共和制や民主主義は可能かという問いは、人はこのルサンチマンから逃れられるかという問いと同じなのである。

20世紀に悲劇を経験した我々はファシズムが、結局は新しい人と人、人と自然の関係性を回復するどころか、ユダヤ人をはじめとする他者の存在を抹殺することにしかならなかったことを知っている。この答えは、国家にも、市場にも、共同体にもない。では我々は一方で市場経済に基づいて、個人が自由に才能を伸ばし、他方で他者からの嫉妬(ルサンチマン)に曝されることなく、相互に助け合える社会を構想すべきではないだろうか。私はそれこそがアソシエーショニズムであると考えている。

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コメント / トラックバック2件 to “D・H・ロレンスとファシズムの親和性”

  1. 摩子 said

    素晴らしいロレンス論。しかも現代的なテーマです!!!

  2. akizukiseijin said

    先日彼の描いた絵画集を図書館で見る機会があったのですが、まるでフランスの後期印象派で野獣派とも呼ばれるゴーギャンの絵のようでした。それに日本の野獣派である村山槐多に似た絵もありました。やはり、彼はそういう種族の一員なんだなと改めて感じました。つまり、彼の小説や詩そして絵画には自然の生命力に魅せられ、文明を捨て、そこに回帰したいという刻印が映し出されています。私は彼と同じ立場を採りませんが、そこには私のテーマにとって無視できない問題が横たわっていると感じるのです。いずれにしても、ロレンスに関しては今後も勉強を深めていきたいと思っています。

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