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Shota Maehara's Blog

 明六社とブルームズベリー・グループ

Posted by Shota Maehara : 10月 20, 2007

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近年、政治や学問や芸術の凋落が著しい。いま私たちは日本の近代化を支えた「啓蒙主義」とは何かということを改めて真剣に問い直さなくてはならない時期に来ていると思う。その意味で、明治初頭の「明六社」のような例が興味深い。

このような個性際立つ人物たちの緩やかなヨコの連帯は、西欧の文脈ではアソシエーションと呼ばれる。とりわけ、そこでの福沢諭吉の移動と批評に関心がある。

また、このような明六社と似た非政治的な団体がイギリスにある。それは作家ヴァージニア・ウルフ、美術批評家ロジャー・フライ、経済学者ケインズ、そして哲学者バートランド・ラッセルなど錚錚たるメンバーが所属した「ブルームズベリー・グループ」である。彼らは「時間」という共通の概念を軸に各々の領域で独創的な活動を展開し、イギリスのみならず世界の言論に大きな影響を与えた。

いうまでもなく明六社をはじめ明治初頭の代表的知識人の多くもまた英米系の学問を基礎にしていた。すなわち、リベラルかつ個人主義的な伝統である。アソシエーションはこうした土壌なくしては生まれ得ない。

したがって、これら両者の比較は、現代の知識人が二重三重の知的文脈のなかで、自らの思考を鍛え上げ、連携し、世論を動かしていくという貴重なロールモデルを提供してくれるはずである。

■関連

・齋藤孝・梅田望夫対談「大人の作法」

http://www.chikumashobo.co.jp/new_chikuma/saitou_umeda/index.html

・The Bloomsbury Group: a wide-ranging influence

http://www.periwork.com/peri_db/wr_db/2006_February_18_10_21_43/index.html

・その他

http://bloomsbury.denise-randle.co.uk/intro.htm

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コメント / トラックバック3件 to “ 明六社とブルームズベリー・グループ”

  1. 結局、大手企業や国家官僚になるということだけが出世やエリートを意味していることがこの国をどんなにか貧しくしていることだろうと思います。かといってこうした上に立つ者達が「公」(おおやけ)のために尽くすという真の意味での「エリートの自覚」を持つわけではない。これが日本のいわゆる民主主義の姿なのかと思うと嘆かわしい。民間の中にいて、誇りを持って市民社会のために尽くす、そうした人に対して人々も敬意を持つ、というごく自然な感覚が必要です。なぜか私には、周りの学者や国民の一部が政府の委員会に入ることのみを出世と考えているようにしか見えないときがあります。この国は江戸時代以前かという気がいたします。

  2. スポンタ中村 said

    >結局、大手企業や国家官僚になるということだけが出世やエリートを意味していることがこの国をどんなにか貧しくしていることだろうと思います。おっしゃるとおり。ただ、問題は、そういう人達が、日本の主導権を得ていることが問題なのです。古い話ですが、クイズダービーの回答者だった鈴木武樹氏は、東京大学がオールマイティーのカードになっていることが問題であると指摘していました。オールマイティーのカードがあることが、日本の職業環境を歪ななものにしている。まずは、東大と分離して、東京官吏養成学校というのを作るなら、その学生は、官吏という蛸壺の中のエリートでしかなくなり、その傲慢さは軽減されるに違いない。職業に貴賎はないにしても、その従事者たちが偏差値によって規定されるならば、貴賎ができてしまう。そのように思っています。人間の価値観は多様であり、特定の価値観で上下をつけることはできぬ。だが、それを総合大学というシステムはその多様性を排除するのです。ありがとうございました。(スポンタ通信から転載)

  3.  東大にも素晴らしい人もいれば、やはりどうしようもない人もいる。これはどの大学でもいつの時代も同じだと思います。要は、出身大学でなく人で判断するしかないのです。 偏差値教育は、私のもっとも嫌悪するものです。日本人はこう言うものが好きですが、それは単に西欧の中世からあるような学問や教養の伝統が全くないから、手っ取り早く数値で優劣をつけようという安易な方法です。野口悠紀雄氏も仰られていたように、偏差値や試験勉強イコール学問ではありません。やはり「考える」プラス「議論する」というプロセスがいまの教育・学問の現場には欠落しているように思います。 あと最近気になるのは、マスメディア言論に対するカウンターであったはずの2ちゃんねるなどのインターネットの言論が溶解してきたというブログの意見を読みました。互いが互いの言論を意識し過ぎて、共犯しているかのように「安倍首相」や「亀田三兄弟」や「朝昇龍」を扱き下ろす。本当は冷静になって、一方方向に偏りすぎた世論に対してこんな見方もあるよと提示する役割がインターネットの個の発言には期待されていたと思うのですが…。 多様性というのは、人間や社会が持っている危機に際してのバランス感覚でもあるわけですが、これは民主主義には不可欠のものです。その意味ではあえて異端を貫くような強いスピリットをもった少数のボランティアがネットにも必要ですね。多様性を確保することはかくも困難な営みなのだと感じています。

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