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Shota Maehara's Blog

現代社会において何が弱者のプライドを傷つけるのか

Posted by Shota Maehara : 9月 26, 2007

かつての中世の封建社会と近代の民主主義社会では、我々の抱く公平感などの道徳感覚にどのような変化が生じたといえるのでしょうか。

一方の封建社会は、もともと「身分制社会」でしたから、かくべつ社会の中に不公平感はない。まして支配する側から支配される側への「ノーブレス・オブリージュ」と呼ばれる高貴な者が果たすべき道徳的義務があった。他方いまの民主主義社会では、建前では平等をうたっている。ゆえに各自は基本的に自己努力で社会の階段を登らなければならない。しかし、ここに難しい問題がある。まずいくら機会の平等をうたっても社会は競争以前に経済力や家柄の差があるといわれる。これが権力者に道徳的義務の放棄を許すだけに終わるなら、最後には民衆にはエリート層へのルサンチマン(怨念)だけが残る。

次に、生まれ持った身分でなく、各自の能力によって格差ができた社会では、いっそう弱者はプライドを傷つけられ、ルサンチマンは幾何級数的に高まるということです。ましてや彼らに同情は禁物です。弱者に対する同情は何物にも変えがたい屈辱だからです。たとえば身体障害のある方が健常者に対して同情はしないで欲しいと仰います。そうでなく普通の人として自分を扱って欲しいと。これは自分たちの経験してきた人間関係に置き換えてもいえるでしょう。だからイギリスでも産業革命で貧窮した人を収容する救貧院などには誰も入りたがらず、今日でも再チャレンジ委員会は根本的に反発を買うだけでしょう。

では誰かに憐れみをかけないで救いの手を差し伸べることは不可能なのでしょうか。おそらく「愛」によってなら可能でしょう。私の好きな言葉に次のようなものがあります。「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい」(コロサイ 3:23)。結局人類は英知を傾けて、殺人や戦争へと向かわせる人間の攻撃性をいかに抑えるべきかをずっと考えてきたといえるのかもしれません。ただし、こうした宗教の言葉に敬意を抱きつつも、私はむしろカントやフロイトのように自己を啓蒙する「理性」の力によって徹底的に問い詰めていく道を選びたいと思っています。

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