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Shota Maehara's Blog

東洋的専制と民主主義の起源―モンテスキューについて

Posted by Shota Maehara : 9月 21, 2007

18世紀フランスの啓蒙思想家・モンテスキューは、民主主義の理論家として知られている。それは彼が『法の精神』の中で、アジアの政治体制を特徴付けるいわゆる「東洋的専制主義」(オリエンタル・デスポティズム)をはじめて政治学の俎上に載せ、それを通して「専制」という統治形態を激しく糾弾したからである。

しかし、そこで見逃されてはならないのは、彼がそのとき対岸の火事としてアジアの「専制」を批判していた訳ではないということである。いままさにそれを模倣するかのようにして専制的かつ中央集権的な官僚国家を作り上げつつあるフランスの絶対王政に対していかに対抗すべきかを模索していたからである。

絶対王政は、プラトンからデカルトに至る理性を持った哲学者=王が国を統治する理想の実現であった。事実、プラトンはまさにエジプトの専制官僚国家を羨望し、それをギリシャでも模倣したいと望んでいたのである。近代に入って啓蒙的理性はこの実現に手を貸し、人々を様々な血縁や地縁やギルドといった所属から剥ぎ取り、自由を与えながらも、それを国家のもとにまとめていく重要な役割を果たした。

こうした状況の中で、皮肉にも遠いアジア的専制国家がヨーロッパの啓蒙主義に支えられた近代国家の姿に重なっていく。モンテスキューはまさしくこうした二つの流れを見据えて、『法の精神」を書き上げたのである。アジアの問題は西欧の問題でもあることを知らしめ、警鐘を鳴らすために。M.ヴェーバーが『支配と権力』の中で明らかにしたように、依然今日においても啓蒙主義による「理性」の支配権の確立と、「国家」(官僚)による支配権の確立とは歩を一にして進んでいる。

身分制度や職能団体などあらゆる属性が剥ぎ取られ、孤立化され、平等化された社会にはいつの時代にも専制にとって最も都合の良い環境である。なぜなら原子化した抽象的な個人は、流されやすく容易に一つにまとめられてしまうからである。それはアジアであれヨーロッパであれ変わりはない。

これを防ぐためにモンテスキューは当時の貴族的諸制度の中に国家と大衆の間を緩衝する「中間権力」の存在を見出した。これによって、権力者の動きをコントロールし、バランスを社会の中に取り戻すべきであると考えた。そして、ここから司法権(当時の高等法院)の独立に重きを置いたかの有名な「三権分立」の思想が生み出されることとなるのである。

モンテスキューが成し遂げようとしたことはその後見失われたが、いままたカントとともに彼の残したメッセージは二一世紀に甦ろうとしている。それはアジアやイスラムやヨーロッパという多系的な文明間の相互作用として世界史を捉えなおすことである。そしてすべての統治体制に潜む穴、すなわち「専制」への転落を防ぐためにあらたに「歴史」(=権力分立)という錘(おもり)を政治に再導入することである。その上で彼は世界をあたかも一つの共和国として愛し、平等を希求する永遠の啓蒙運動への道が可能であると説くのである。

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