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Shota Maehara's Blog

「啓蒙の弁証法」(アドルノ/ホルクハイマー)―理性と国家

Posted by Shota Maehara : 9月 21, 2007

pt-adorno■近代の二つの流れ―理性と国家の支配

A.理性→×歴史→合理性(論理)

B.国家→×社会→超国家(官僚)

かつてフランクフルト学派のアドルノとホルクハイマーは、『啓蒙の弁証法』という書物を著した。「理性」(合理性/論理)は基本的に人間の複数性(差異)というものを認めない。そのため近代は、過去の伝統や歴史を批判して社会生活や価値観を画一化=フラット化していく合理化の過程であると述べている。彼らは、その原動力を資本主義経済の合理性に見出し、そのもとで生まれた大衆社会を批判することを自らの哲学的使命としてきた。

だが、もう一人の同時代のユダヤ人哲学者ハンナ・アレントは、人間の複数性を抑圧するのは、たんに資本制経済を支える合理性ではなく、なにより「国家」(官僚)による合理的支配であることを見抜いていた。理性と同様に、いや理性によって国家もまた社会を自らのイメージに沿ってデザイン(設計)できると考えている。その意味で官僚は無知な民衆を指導する教師の立場から政策を立案・計画しているのだ。

それゆえ国家官僚は人間が織り成す社会の予測不可能性や多様性を許すことができず、その結果、大衆から思考力を奪い帰属する集団や組織を奪って安全の名の下に管理しようとする。すでに1960年代のアメリカで、アレントはこうした市民生活の場としての公的領域の腐食を極めて敏感に感じ取っていた。さらに、彼女の論が何より不気味なのは、人間の中にある思考を放棄してしまいたいという欲望こそがそうした国家の管理を招きよせていると考えているからなのである。

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