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Shota Maehara's Blog

 追記―総表現社会と総監視社会の出現

Posted by Shota Maehara : 9月 6, 2007

■現代情報社会において「匿名性」の問題がクローズアップされている。ブログや掲示板など匿名で表現活動をする自由さと安全性の面が囁かれる一方で、実はコンピューターシステムの中では誰もが真に匿名であることは不可能であると認識せざるを得ない時代に生きている。また総表現社会の担い手である「マルチチュード」(群集)は、多様で特定不可能であるとされる一方で、あらゆる意味で監視の目を潜り抜けることは実際は不可能である。

■我々は、世間に監視され、企業に監視され、国家に監視され、そしてシステムに監視されているというオブセッション(強迫観念)に常に付きまとわれている。まさしく総表現社会は総監視社会の出現でもある。

■表現の担い手とはいつの時代も迫害の対象であった。サイードが述べたように、表現者すなわち知識人とは、権力に対して真実を語ろうとする言葉の使い手であったからである。フーコーがサルトルを批判して以後、現代社会から知識人の存在は一層された。その結果、いまや知識人を批判することで誰もが知識人として振舞うことができる。本当の意味で知識人の責任を負うリスクを除いては。

■迫害の恐怖はいまや一部の表現者から全人民に及んでいる。ウェブページを閲覧したり、個人ブログのユーザーであることは責任や利害関係から自由であるどころか、「履歴」という名の文責から実は誰も逃れられないことを逆に明らかにした。誰もが表現活動の条件として、日々自らの身元をコンピューターに登録し、全方位的な監視の手に自らを委ねている。

■実は、監視する側にとって本当の意味で「固有名」は、問われていない。彼らが把握したいのは、その人物が何を欲し、どういう行動をとったかの情報あって、その人の名前は「タグ」ほどの意味しか持たない。だからタグ付けされた人間の社会とは、アーレントが主張する「人間の条件」が全く剥ぎ取られた世界なのである。この中で真に人間的であり続けるにはどうすればよいかを模索したのがこのエッセイ(「人間の条件としての「対話」―実名言論と匿名言論」)なのである。

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