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Shota Maehara's Blog

 人間の条件としての「対話」―実名言論と匿名言論

Posted by Shota Maehara : 9月 5, 2007

ウェブで起きていることは、個がひとつの属性の奴隷でないこと。もうひとつは、個の属性が変化できること。個が複数の属性を持つことが可能であることです(スポンタ中村)

このことは今日のネット上の匿名言論の世界で実際に起きていることであると思います。確かに、匿名によって、情報発信する個人が、社会的な地位や性別や年齢に縛られることなく、時に自由に、時に自己を分裂させて、複数の異なる言論を紡ぐことには否定することのできない魅力があります。

しかし、この現実を単に追認しただけでは、ポストモダンな脱主体化(「マルチチュード」)を肯定することにつながるのではないでしょうか。果たしてこれがスポンタさんのいう「自律した個人」の姿なのでしょうか。私は、スポンタさんの立派な人柄に接して、そうではないと直感しています。

そもそも人間が多様な人々とともに暮らし、その関係の「網の目」(ウェブ)のなかで生のリアリティを感じてきたことはいつの時代も同じです。実はこの複数に張り巡らされた関係の網の目にいるからこそ人は、内部に多様性を持つのです。21世紀になってウェブの世界は、これらの諸関係を可視化した。そのことの持つ意味は極めて重要です。

なぜなら、夢に現れた無意識の世界がそうであるように、ここでは複数の相い矛盾した言説が覇権(ヘゲモニー)を競って闘争を繰り返している姿が視えるからです。「文化」というものがまさにそうです。文化の基底には、複数の民衆文化があり、相互に闘争・抑圧を繰り返し、自身を「文化」として認めさせようとしています。こうしたヘゲモニー闘争は、いままさにウェブの言説空間で起こっていることです。おそらく現時点におけるおける覇権は池田信夫氏や梅田望夫氏にあるのかもしれません。つまり、ウェブの言説空間は平和ではなく、ある種の戦争状態の継続であると認識しなければなりません。

そしてなにより、こうした人間の諸関係の網の目がウェブで可視化されることによって、「人間の条件」の根幹にある「対話」の大切さがより深く理解されると思うからです。アレントが示したように、対話は人間の多様性や差異性を明らかにし、自分の「正体」(who)を開示することで、そこがどこであろうと「公的空間」をつくる。

さらに飛躍を恐れずに言えば、そこが公的空間となるためには、匿名であれ、実名であれ、人々に私がいったい何者であるのかを知らせ、彼らから承認を得なければなりません。こうした言論=活動(Action)によって相互に承認し合った者達のつくる空間こそが真に公的空間と呼べるのです。たとえどれほどそこで実名(作者)の持つ権威が批判されようと、その言論を真に普遍的たらしめているもの、つまり「固有名」は残りつづけるのです。なぜなら言論はその「固有名」によってその真実性を担保されているからです。ではそれは一体何なのでしょうか。

ある言説が単に一つの共同体の中で真実だとされても、それは所詮ローカルな合意でしかありません。もしかすると別の共同体や、さらに未来の人達がNOと言うかもしれないからです。だから、私は、今いる人達だけではなく、未来の読者に語りかけているのです。こうした国籍や肩書きや年齢や性別といった属性を逃れたときだけ、真にパブリック(公的)な言説を紡ぐことができるからです。その意味では、政治家やメディアが語る言葉はすべて国家や会社の利害に絡め取られているゆえに、プライベート(私的)なものと見なさなくてはなりません。人はそのとき私の言説を「固有名」で呼ばざるを得ないはずなのです。

ギリシャではこうしてできた公的な空間を「ポリス」、中世では「結社」、日本では「座」などと呼ぶ。私はこれらを総称して「アソシエーション」と名づけたいと思います。アソシエーションは自由な諸個人が水平的な関係によって創り上げるいわば自由の構成体です。それは議会や選挙やメディアといったある目的にとって、手段であったり、有用であったり、必要だから行うのではない。むしろ、こうした束縛から一時的に完全に解き放たれている人間の自由な行為(Action)なのです。

近代になって公的な空間はネーションやナショナリズムに独占されてきました。しかしいまやふたたびアソシエーションが主流になる時代が確実に来ていると考えています。

参考文献

■ハンナ・アレント:『人間の条件』(志水速雄訳、中央公論社)/Hannah Arendt,The Human Condition,1958

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コメント / トラックバック1件 to “ 人間の条件としての「対話」―実名言論と匿名言論”

  1. ロマンサー said

     素晴らしいエッセイですね。こういう哲学的な問題を論じれる方は、ウェブ上ではホントにいない。大概は、現象的なテーマにイエス・ノーと評価・解釈しているだけです。だからあなたの議論の核心的な部分もウェブ上ではきっと理解されないでしょう。 しかし、21世紀のインターネットの世界で、カントの視点から、アーレントの「対話」の今日的意義を明らかにしようとした秀逸な文章ですね。特に「固有名」の問題を取り上げられたことが面白い。 アーレントの「自由の構成体」の議論を徹底的に読み直す中で、いかにそれを新たな社会、公的領域としてのアソシエーションに接続する。その論理展開は素晴らしいものです。思考は実践を伴わなければ意味がありません。しかし、思考のない実践がいまいかに多いことでしょう。誰も人前で知的な議論をしなくなりましたし、学ぶことも放棄しつつあります。以前は、喫茶店でよくこうしたことを話したものですね。ありがとうございました。これからは少し移動をして、実践的な方面にも力を入れていきましょう。ありがとうございました。

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