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Shota Maehara's Blog

 オープンソースと資本主義の融合

Posted by Shota Maehara : 9月 4, 2007

ウェブ2.0において、「オープンソース」という概念は、ある種時代のキーワードとして使われている。それはある情報源を共有し誰もが自由に制作に参加できる「マス・コラボレーション」の仕組みである。代表的な例としては、ウィキペディアのウェブ上の辞書編集やリナックスのプログラムの改良などがある。ただし、ウェブそのものの仕組みが、広い意味でのオープンソースとなっており、無料で提供されるウェブニュース、メルマガ、ブログなどによって無尽蔵の知が日々ウェブ上に蓄積されている。

こうしたオープンソースというウェブ上の文化に対して、従来の経済活動によって利益を挙げてきた企業からは脅威と受け止められ、知的財産や著作権に関する私的所有権の侵害であるとして糾弾されている。つまり、これは、共同所有の文化的土壌から生まれたコミュニズムであり、アナーキズムであるというわけだ。

それに対して、近年IBMなどを筆頭にして、こうした「オープンソース」の考えを企業戦略として取り入れ、マイクロソフトやグーグルといった成長著しいシリコンバレー企業に対抗しようとする動きが出てきた。それに伴って、こうしたコモンズ(共有財)は自由競争と矛盾せず、むしろ経済活動を促進するという見方がでてきた。

確かに、オープンソースの思想を生み出したのは、ハッカー文化であり、政治的文脈では、「リバタリアン」もしくは「リバタリアン社会主義」と呼ばれる人たちである。ただし池田信夫も指摘するように、彼らは、私的所有権として資本を資本家が独占し、それを持って労働者を雇う形態を嫌って、コモンズ(共有財)を諸個人が所有し、それを使って共同作業する労働者の自主管理のような形態を作ろうとしている。したがって、社会主義ではなく、正しくはアソシエーションと呼ばれるべきものである。しかもそれはインターネットの情報が無料であり無限であるがゆえに実現可能となった。

かくしていまやマルクスが唱えたアソシエーショニズムがウェブで初めて日の目を見たかのようである。資本主義は自らの発展の結果、自らの存在を否定するものを生み出すというマルクスの「弁証法」の正しさを示す好例といっていいかもしれない。

しかし、驚くべきは資本主義がついに自らを否定するものを生み出したことではなくて、死して尚も生き延びるその強靭な生命力と柔軟さではないだろうか。むしろこの一例を私はここに見るような気がする。

そもそも資本制経済のオメガである「私的所有権」が、「共有」という考え方と決して矛盾しないことは指摘されてしかるべきだろう。小室直樹によれば、「所有(権)とは、権利(交換価値の全包括的な支配権)のことをいうのであって、(使用価値のある)所有物の占有をいうのではないから、「所有者は一人にかぎる」ということは、「共有」「総有」などの共同所有と矛盾しない。」とされる。

彼の議論を敷衍するならば、我々の未来には二つの道が示されているのではないか。

まず、コモンズの最終的な権利は私企業や政府が握りつつ、内容はユーザー同士のマス・コラボレーションに任せるという道。ある意味おいて、これはユーザーからの搾取であり、入れ物とそれを所有する権利者だけが圧倒的な利益を得る構造である。いわばコモンズの資本家による再吸収と呼べる。(コモンズ<私的所有)

次に、あくまでウェブ上の情報を共有地として守り続け、基本的なルール以外は私的企業や政府の介入を許さず、ユーザーの自発性と多様性に任せる道である。これは困難な道だが、諸個人が経済の手段と目的の連鎖から離れ、自律性を確保するために必要な空間である。(コモンズ>個的所有)

今我々のいるグローバル資本主義はこの両軸に足をかけている。いずれにしても私は、これによって劇的な変革がもたらされるという見方には懐疑的である。変化は一連の長いプロセスであり、たった一度の革命やイノベーションによってすべてが変わるはずはない。

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コメント / トラックバック3件 to “ オープンソースと資本主義の融合”

  1. スポンタ said

    ウェブで起きていることは、個がひとつの属性の奴隷でないこと。もうひとつは、個の属性が変化できること。個が複数の属性を持つことが可能であることです。そのような2007年を想起したとき、かつての言論が何処まで妥当性を保持できるか。なかなか難しいところだと感じています。

  2. ★スポンタ様。コメントありがとうございました。★「ウェブで起きていることは、個がひとつの属性の奴隷でないこと。もうひとつは、個の属性が変化できること。個が複数の属性を持つことが可能であることです。」このことは現実に、今日のネット言論の世界で起きていることであると思います。★しかし、これを単に肯定したのでは、単にポストモダンな脱主体化(「マルチチュード」)を肯定することにつながるのではないでしょうか。果たしてこれがスポンタさんのいう「自律した個人」の姿なのでしょうか。私は、スポンタさんの立派なお人柄に接して、そうではないと直感しています。★人間が多様な人々とともに暮らし、その関係の「網の目」(ウェブ)のなかで生のリアリティを感じてきたことはいつの時代も同じです。実はこの複数に張り巡らされた関係の網の目にいるからこそ人は、内部に多様性を持つのです。21世紀になってウェブの世界は、これらの諸関係を可視化した。そのことの持つ意味は重要です。★なぜなら、夢に現れた無意識の世界がそうであるように、ここでは複数の合い矛盾した言説が覇権(ヘゲモニー)を競って闘争を繰り返しているからです。「文化」というものがまさにそうです。文化の基底には、複数の民衆文化があり、相互に闘争・抑圧を繰り返し、自身を「文化」として認めさせようとしています。こうしたヘゲモニー闘争は、いままさにウェブの言説空間で起こっていることです。おそらく現時点におけるおける覇権は池田信夫氏や梅田望夫氏にあるのかもしれません。つまり、ウェブの言説空間はつねに平和ではなく、ある種の戦争状態の継続なのです。★そしてなにより、こうした人間が諸関係の網の目のなかにいるということがウェブで可視化されることによって、「人間の条件」とされる「対話」の大切さが改めて深く理解されると思うからです。アーレントが示したように、対話は人間の多様性や差異性を明らかにし、自分の「正体」(who)を開示することで、そこがどこであろうと「公的な空間」をつくる。飛躍を恐れずに言えば、そこが公的な空間となるのは、匿名言論ではなく、実名言論によって人々に私がいったい何者であるのか承認を得るからなのです。それ以外はすべて私的な会話に過ぎません。こうして相互に承認されたもの達の空間こそが公的な空間と呼べるのです。★ギリシャではこうした公的な空間を「ポリス」、中世では「結社」、日本では「座」などと呼ぶ。私はこれを総称して「アソシエーション」と名づけたいと思います。アソシエーションは自由な諸個人が水平的な関係によって創り上げる。近代になって公的な空間となったネーションやナショナリズムにかわって、ふたたびアソシエーションこそが主流になるべきだと思っています。

  3. アメリカのハッカー文化には、脚注が必要であろう。彼らは基本的に「リバタリアン」と呼ばれる人々なのであるが、アメリカではヨーロッパの文脈と異なるもしくは混在したままこの名称が使われているからである。「リバタリアン」A「リバタリアン社会主義」(ヨーロッパ型)―ロールズB「資本主義的リバタリアン」(アメリカ型)―ノージック

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