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Shota Maehara's Blog

岡倉天心とウィリアム・モリス 第3部

Posted by Shota Maehara : 8月 28, 2007

最後に岡倉天心の「個人主義」に関して、見過ごすことのできないのは、中国の道教思想、特に禅思想のかかわりで、室町時代の霊的、精神的な「個人主義」のエートスを評価している点である。坂部はこれについて次のように指摘している。

・・・それで、おもしろいことは、その禅仏教が、個人主義だということを非常に強く言っていて、やはり岡倉天心も九鬼周造もそういう武士的なプライドというか、そういうものを一応引いていたのでしょうか。禅の個人主義、まず自分の力で悟らなければいけないという、その禅の自力にむしろ岡倉天心は、共感したようですね。(「天心と九鬼周造―近代日本の個人主義の系譜」、二〇三頁)

坂部も別のところで指摘しているように、岡倉の「個人主義」が、「自己の個性を発揮する、あるいは自分が属する文化の個性を自覚すると同時に他人の個性も全面的に尊重する、他の文化のあり方も全面的に尊重する」という夏目漱石の晩年の講演(「私の個人主義」)を思わせるような観点から、やがて「アジアは一つ」という主張に表れた東西文明の融合へと至るコスモポリタニズム(世界市民主義)となるためにはこの説明以外のアプローチを必要とする。

禅仏教は、室町時代以前から日本に伝えられ、独自の文化を生みだし、とりわけ安土・桃山時代に豊臣秀吉によって庇護された千利休の茶の湯や茶室は、先に触れたように東西文明が流れ込んでくる集積地としての島国という地政学的位置がもたらした、文化・芸術の一つの極致であった。しかも、それは時の政治権力と鋭く拮抗しうる芸術の自律性を備えていた当時としては稀有な文化であった。

ここで特に強調したいのが、禅もしくは茶の湯における「個人主義」というものがあるとするならば、それは日々の自己を点検し、省みることで自らを自己制御していこうとする技術である、フーコーが晩年「自己のテクノロジー」とでも呼んだストア派的な思想であったことである。

晩年にフランスの哲学者ミシェル・フーコーは、イマニュエル・カントの「啓蒙とは何か」というテクストに着目していたが、それは近代以後の「自己」をセネカなどのストア派哲学のなかに見た事と通じている。セネカやアウレリウスは、政治や戦争という激務のなかで、その日の終わりに常に日記をつけ、自らの日々の行動を理性に照らしてチェックすることで、死という運命を諦念し、受け入れ、逆にその恐れから逃れようとした。その繰り返しという習慣性のなかにこそフーコーは、自己を形作ると伴に、制御する自己のテクノロジーを見たのである。特にアウレリウスはその世界市民主義によって知られている。

同様に、ドイツの思想家イマニュエル・カントは、晩年の「永遠平和のために」という世界平和論と合わせて読まれるべきテクストである「啓蒙とは何か」の中で、自らの属す国家や共同体を超える世界市民を創るのは、逆説的に聞こえるが徹底的に自らを省みること、自らの未熟な理性を開花させてやること、すなわち自己啓蒙こそが重要だと指摘する。そうした時にのみ、個人は社会や国家の一般的利害に囚われない、真の意味で世界的、普遍的な、パブリックな存在になると考えたのである。

ここからすれば、坂部が言うように、岡倉の思想の持つ「個人主義」がやがて世界市民へと向かう契機になるとすれば、それは「武士的なプライド」であるよりもむしろ、こうしたカントのような視点を、彼が明治初頭において保持し、その起源をロマン主義の時代区分に当たる一五、六世紀の「室町時代」のなかに見出したためであるとはいえないだろうか。これこそが近代日本における資本主義の精神としての「個人主義」の可能性であり、一六世紀に世界資本主義がもたらした同時代性でありかつ、一九世紀の産業革命と近代国民国家(ネーション・ステート)の確立によって劇的に隠蔽された歴史的視点だったのである。

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コメント / トラックバック2件 to “岡倉天心とウィリアム・モリス 第3部”

  1. スポンタ said

    ウイリアム・モリスですか。なかなか面白い興味の持ちどころですね。私は、昔、彼の展覧会に行ったのですが、芸術作品なのか、工芸作品なのか。そのことに混乱をきたした思いがあります。つまり、芸術的には画期的だが(ミニマルアート的)、工芸作品としては、日本の無名の職人たちがつくりあげたデザインの方がはるかに勝る。とはいえ、彼の作品は、そのようなことをはじめて考えさせてくれました。それは、いまCritical Horizonさんが論じたいようなことと、同じ重要度を持って、私に感じられていたのでしょうね。ありがとうございました。

  2. ★スポンタさんへ。コメント頂きありがとうございました。★ウィリアム・モリスは私が一番最初に取り組んだ芸術家であり、私の芸術観の土台になった人です。イギリス・ロマン主義、その社会思想、イギリス産業革命、モダンorインダストリアル・デザイン、環境破壊、そしてなにより「芸術とは誰のためにあるか」という命題を彼を通して考えてきました。いつも私の傍にモリスがいるという気がします。★地政学的な観点からすると、日本はイギリスとよく似ています。一般的な通説とは異なり、今日多くの懸命な歴史学者が明らかにしつつあるように、日本はヨーロッパ以外で唯一「封建制」を持った国です。封建制とは、絶対権力が支配せず、封建諸侯によって多中心的に国が治められていることをさします。それはロシアや中国のかつての古代文明の帝国が、絶対的な中央集権的官僚システムによって国を治めたのとは正反対です。日本は確かにこうしたアジア的な部分を残していますが、西洋以外で資本主義がこれだけ発達したのは、やはり地政学的な構造が似ているからだとしか説明できません。★丸山真男や和辻哲郎らは、日本と西洋とを対照的と見なしましたがそれは間違いです。むしろ、似ているにもかかわらず何が「差異」を生み出したのかの歴史的要因を探らなくてはなりません。この観点なくしては、21世紀にグローバルに拡がる諸問題に対して、文明を問い直すという私の仕事は不可能です。★古代文明は、結局戦争や環境に対する負荷をかけすぎたことがもとで滅んでしまいました。私たちも同じ道を辿らざるを得ないのか、それとも生き延びる道を模索しうるのか。ここから目をそむけることは誰にもできないでしょう。

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