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Shota Maehara's Blog

都市と文明の考察―人間の外にある自然と内なる自然

Posted by Shota Maehara : 8月 26, 2007

raphael-Plato-Aristotle_yoestデカルト以来、、考えることとはすなわち常識を疑うことである。社会科学ではこれを「批判精神」(critical thinking)と呼び、まず最初に叩き込まれる。しかし、日常の生活の中で人はいかに考えずに過ごすように仕向けられてしまっていることだろう。マス・メディアもその悪しき一翼を担っているが、学問でも前提そのものを疑える人はまれである。かつて文芸批評家の小林秀雄はこう述べている。言語学者には「言語」に対する驚きがなく、同様に経済学者には「商品」に対する驚きが無い。この驚きの前に立ち止まれる人こそ批評家であり哲学者であるという響きがここにはある。

最近耳にする例で言えば「民営化」の問題がある。一般通念とは裏腹に、民営化によって推し進められるのは国営化である。新古典派経済学者は、自由市場は政府の規制がない時最もよく機能すると言う。しかし、歴史上政府の介入が無かった時期というものが果たして存在するのか。そもそも資本主義の前提である私的所有権は、まず先に国家が一定の領土を国有している事実があるからこそ保証される。ポランニーが指摘したように全国的自由市場を成立させたのはまぎれもなく国家である。その意味で資本主義の生みの親は国家なのである。

だから自由市場にすれば役人の数が減るどころか増える。なぜなら自由市場のルールを作り監視するためにますます多くの役人が必要となるからである。クリントン政権時代のアメリカ、ライブドア・村上ファンド事件以後の日本の経済官僚・東京地検の権力の増長ぶりを見よ。

さらに重要なのは、官僚とは市場法則とはまったく別の論理で生きる支配階級であると言う点である。極論すれば、たとえ国民が滅んだとしても彼らの生存がすべてに優先する。だから民営化した事業体に早晩官僚が天下ってくることは眼に見えている。それによってどれほど国民の反発を買ったとしてもである。すでに国立大学の東大や京大でこうした動きは始まっている。

では一体なぜこのようなことが起こり得るのか。それを知るためにはもう少し原理的に国家の起源を掘り下げて考察してみる必要がある。以下はその簡単なスケッチである。

人類は農業社会から工業社会へと発展するのに伴って、生活の中心が農村から都市に移ったとされる。これが近代の定説である。アーネスト・ゲルナーをはじめ多くの歴史家がこれを自明視し論を進めている。しかし、私にはどうしてもこのことが納得できない。なぜなら、聖書の紀元前の記述に、すでに人々の生活の中心として都市が描かれている。他方で農村の方は影が薄い。また神(ヤハウェ)はソドムとゴモラなど多くの都市を滅ぼすが、農村を滅ぼしたなどという話は聞かない。なぜだろうか。それはもしかすると当時の人々の生活の中心はすでに都市とともにあったからではないだろうか。私の疑念はここに始まる。

かつてローマ帝国が異教のゴート族に侵略されたとき、多くの人はローマがキリスト教化したことが原因ではないかと語り合った。これに反駁して、教父アウグスティヌスは412年から14年の歳月をかけて『神の国」(City of God)を著し、キリスト教の正当性を弁護した。彼が言う国とはいうまでもなく都市国家のことである。

諸種の技術革新が保守的な農村でなされたなどということがあり得るのか。本当にそこからやがて工業や都市が発展していく芽が生まれたのか。こうした疑問をエリック・ホッファーは投げかけている。人間は自然の脅威を前にして、都市を形成し、文明を築き上げてきた。したがって人間が都市を捨て去ることはふたたび自然へ従属させられることを意味する。人間がもっとも人間らしく創意工夫に富むのは自然を離れた都市の中でである。生涯を季節労働者、港湾労働者として生き抜き思索を続けた彼の視点には、近代人特有の自然崇拝という甘さはない。

近代に国民国家が誕生する以前を想起しよう。人類最初の文明は古代シュメールの都市国家とともに興る。後の中世においても教会権力に支えられたギルドの自治都市が勃興し繁栄する。そして近代になって初めて農村からマンチェスターなどの工業都市が発展していく。しかしここでも大塚久雄が明らかにしたように、当時既得権益化した都市の同業者組合のギルドに参入できなかった職人が郊外(カントリー)の農村へ多量に移動をはじめたことが産業革命の引き金になったと言われている。

かくして人類史の上で都市=国家が農村に先行していたということが事実であるとするならば、経済と国家の関係についてコペルニクス的転回をする必要が出てくる。市場経済を強めることによって国家や政府を不要にできると考える自由競争・市場万能主義は、今日の社会問題に対する本質的な解決にはならないということである。

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コメント / トラックバック1件 to “都市と文明の考察―人間の外にある自然と内なる自然”

  1. ロマンサー said

    素晴らしい論考の数々に圧倒されております。時事的な関心に流されず、本質的な問題を思索し続けるおそらく唯一のブログではないでしょうか。今回も多くを学ばせていただきました。 特に、文明化という観点から、人類の起源としての「都市」の存在を抽象力によって描き出そうとする。これは、今日の戦争や環境問題に対してもヒントを与えてくれるように感じます。 かつての労働観は生産と消費という一方通行でしか考えられていなかった。しかし、実際は、生産中に残りくずも出るし、消費した後ゴミも出る。だからエコシステムは、循環型サイクルとして捉えなおされなくてはなりませんね。 あなたのご主張は、文明や科学が自然を壊すのではなく、文明や科学の認識が不十分な事が原因だとお考えになっておられる。まさにその通りだと思います。 しかし、国家と戦争の関係は、どうなるのでしょうか。これは依然として解けない謎ですね。今後の論考で少しずつこの点を明らかにされることと期待しております。ありがとうございました。

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