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Shota Maehara's Blog

外資系投資ファンドの教訓―日本の会社の責任者はどこ?

Posted by Shota Maehara : 8月 26, 2007

1.投資ファンドへの異常な嫌悪感

先日のライブドアの堀江貴文被告に続いて、インサイダー疑惑に揺れる村上ファンド代表・村上世彰被告にも実刑判決が下された。彼ら二人の登場は、日本社会にとって決めて異質で、拝金主義と揶揄された。そのためこの判決を当然のことと感じられる方も多くいることだろう。

しかし、私には彼らの登場以上に、その後のマスコミや司法の対応の方にむしろ背筋が寒くなる思いがした。なぜなら、そこでは、極めて日本的な非近代的発想が顔を覗かせていたからだ。ニッポン放送の社長は涙ながらに、会社は社員のものだと記者の前で訴えていた。街頭インタビューでも、「会社は株主のものか」という質問に、「いや社員のものだ」と言う発言が繰り返された。

2.「所有と経営の分離」の原則

本来株式会社とは、「所有と経営の分離」の原則に基づいている。それは、近代の「所有権」の概念から由来する。すなわち、ある建物を所有する人と、それを実際つかって占有する人との区別だ。実際使っているか否かにかかわらず所有権は、排他的に前者に帰属する。これが大原則だ。これがあるゆえに株式会社が成立し、資本制経済も円滑に行われる。だが、残念ながらこの「所有権」の概念は、「日本人の法意識」(川島武宜)として結局根付かなかった。いや、「権利」一般が理解されていないというべきだろう。その意味で市民社会以前としか言いようがない。

今回ブルドックソースにTOB(株式公開買い付け)を仕掛け、司法によって阻止された話題の米スティールが記者会見を開いた。そこで日本の企業や司法の政策を酷評したという。これは外国人の眼から見て極めて当然のことだ。外資系企業や投資ファンドにとって、文化摩擦ならぬ、文化断絶と映っただろう。資本の自由化に対してあらゆる国が、自国の産業を保護しようとするのは世の慣わしだ。だから、そのために正々堂々とダブル・スタンダードで対処すればよい。なのにかかわらず、株式会社に関する法律を曲解して、情に流された判決をするのは戦前の日本人のファシズム思考への逆戻りだ。

3.「権利」と「現実」の分離―チェック&バランス

最近市民派の碩学岩井克人教授までもが「会社は株主のものだという考えは、法理論上誤りだ」と述べていると聞く。氏の論争的な主張は、それとして理解できる部分もある。しかし、資本主義を市民主義で批判しようとするあまり、このままでいくと資本主義のおかげで実現する人間の基本的な「権利」すらないがしろにされる恐れがある。これは氏の考えとしても本望ではないだろう。

もちろん株式会社とはそもそも投資家が、経営者に事業を任せて利益を上げる金儲けの仕組みである。ただそれ以上に、私は個人的になぜ権利という抽象的なものが現実の占有と分離したのかというと、それによって現実を批判し、行動をチェックするためではないかと考えている。会社でいえば経営者の行動を株主に説明できるようにし、絶えずチェックしてもらうためだ。そのために公認会計士も本来は株主が雇う。だから中立性を維持できる。

しかし、日本ではこの関係が逆転してしまって、経営者や社員が株主をいかがわしいものと感じ、指導しようとする。そこで公認会計士をあろうことか経営者が雇う。結果株主は経営者の経営を公平に判断する会計士という手段を失う。このチェック&バランスの逆転、喪失は日本の企業や司法のゆくすえにどんな影響を及ぼすのだろうか。ましてや国家と国民の権利・義務の関係においてはなおさらである。

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