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Shota Maehara's Blog

ネット言論の秩序に対する二つの見方―ハイエク派とマルクス派

Posted by Shota Maehara : 8月 17, 2007

スポンタさんと私の「ネット言論における秩序」の捉え方の違いをもっとシンプルにいえないかと考えました。次のように要約してみます。

A.ハイエク派=自生的秩序(spontaneous order)

→ スポンタ中村さん

B.マルクス派=自然成長性(naturwuchsigkeit)

→Critical Horizon

A,Bともネット言論の秩序を提供者が前もって決めて、みながそれに従う秩序観に対して、ユーザーが自然発生的に緩やかなルールを作るような秩序観であるという点では同じである。

しかし、私は、前者に計画経済と同じような予定調和性、目的論的意図をつまりアダム・スミスの唱えた「神の見えざる手」以来の神学臭さを感じています。その点が、池田信夫さんに同意しながらも完全に一致できない点なのです。

それに対して、マルクスの「自然性成長性」とは、「計画的な組織によって管理できないが、同時に自生的秩序なるものを絶えず解体してしまうものでもある」。このアンチノミーの上に社会のダイナミズムを捉えるべきだと私は考えています。

※スポンタ中村さんの著書『サイバージャーナリズム』(ソフトバンク新書)によれば、「スポンタとは“spontaneous”(率直な)の略」だそうですね。不思議にも上記の主張とピッタリ合ってしまいました。あくまで余談ですが。

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コメント / トラックバック3件 to “ネット言論の秩序に対する二つの見方―ハイエク派とマルクス派”

  1. スポンタ中村 said

    どうも、コメントありがとう。☆がたくさんあるほうのリプライです。去年末、私が書いていた、トリガー論・コミュニケーション論・コミュニティー論を読んでいらっしゃいますか、あのあたりにあらかたのことが書かれていると思います。*要は、ロゴス的世界の限界と、非言語的な集合的無意識ですべてに人はつながっているということ。それとネット者が完全にかさなるはずもないけど、いまはそれを近似値的に捉えないと先にすすんでいかない。そんな感じです。*あの論文を読んだ一番の感想は、いままで手垢がついてきた語句の語感をそのまま綴っているという違和感です。それは、佐々木氏やR氏が、妄想という語を使うほどには喜劇的ではないのだけど、ほとんど同じことを考えているあなたと私とすれば、ちょっと悲しいな…。という感じがしました。とはいえ、そのあたりを突っ込んでしまっても、喧嘩になるだけだし、池田先生だったら、「君はポストモダン的な言論を紡ぐね」と一言に伏されてしまう。そんな感じ。あそこには、私の感想の下にもうひとつ書き加えたかったけどできなかったのは、「多様なアルゴリズムを並存させること」。それが、これからの未来をつくることであって、専制か自由か。政治か経済か。などというオルタナティブな関係ではないということを指摘したかった。デモクラシーは魅力だけど、デモクラシーだけが、市民を幸福に導くのではない。きっと、デモクラシーの成立によって路頭に迷う人達もいるだろう。ならば、さまざまなアルゴリズムを並存させて、なるべくソフトな社会変革を目指すべきではないかな…。などと思うのです。Posted by at 2007年08月18日 09:35(スポンタ通信2.2より転載)

  2. スポンタ中村 said

    スポンティニアスというのは、自生的なんだけど、要は、極限にまで拡散した状態。エントロピーが0の安定した状態なんだと思う。私は古代エジプト人よりも現代人の方が優れているというような、マルクスが唱える社会が進化していくという考えを疑っています。逆にいえば、スピリチュアルなこと。生死を越えた存在について、知性を操ることによって忘れようとしてきたのが近代思想ではないか。との諦観があります。(スポンタ通信2.2より転載)西洋にとっては、世紀末にメメントモリなどと思い出すばかりですが、東洋思想にとっては、彼岸は常に生活とともにある。死と向き合うとき、知性は訳にたたず、感性や悟性といったものが必要になる。そして、宗教を知性と勘違いしたひとたちがカルトに巻き込まれ、大量殺人を起こす。そんなことを考えています。そんな私はマルクスを不勉強なので、語る術を持ちません。申し訳ないことです。コメントありがとうございました。

  3. スポンタ中村 said

    またも、コメントできず、ごめんなさい。——————————ごめんなさい。>平等で公正な世論これについては、たしか倫敦橋さんも、そのような考え方をする人が多いと嘆いていましたっけ。世の中はすべて、個の主観でなりたっていて、平等も公正もそれを判断する人の主観でしかない。ならば、情報・言論・意見の重要度の多様な重要度が共有されればいい。そうして提出された巷間の重要度の高いものが、世論となる。いまは、言論の一覧性も総覧性もなく、価値のタグをつける権利も寡占者たちに専横されている。ということが私の問題認識です。*ごめんなさい。横レスになってしまって…。でも、これが本質的な私の言論の部分だったのです。ありがとうございました。(スポンタ通信2.2より転載)

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