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Shota Maehara's Blog

第4部 沈黙する日本の民主主義

Posted by Shota Maehara : 8月 16, 2007

もちろん日本にも韓国のような激しい民主化闘争が過去に存在しなかったわけではない。とくに明治期の自由民権運動、大正デモクラシー、そして戦後の安保闘争などの長い歴史がある。とりわけ六〇年代の安保闘争は、マルクス主義系の学生を主体とする国民的規模の運動であった。ただその中で浮かび上がってきた問題点がある。それはこうした運動が、自立した諸個人の権利を切り捨て、一部の前衛集団の主導で推し進められてきたことだ。彼らはリベラルな価値や啓蒙には限界があるという事実をもって、それを放棄する理由になると考えたのである。

しかし、韓国と異なり、たえず全体社会の見えざる圧力の下に孤立した諸個人が従属させられている日本でこうした運動を行えばどうなるか。それは火を見るよりも明らかであった。つまり外からの国家の暴力以上に組織内部の無秩序的な暴力によって瓦解したのである。それは、日本の左翼運動の論理的帰結である連合赤軍事件や各セクトの内ゲバと呼ばれる集団リンチ事件に象徴されている。

ここから生まれた政治運動全般に対するシニシズムは、今に至るも日本社会全体を覆っている。その後共産主義圏が崩壊し、アメリカ型市場競争が徹底されるに及んで、格差、テロ、言論の右傾化は社会にとって最も深刻な争いの火種となっている。

自信を喪失した私たちは唯一の被爆国として世界の核廃絶を訴える日本の半世紀にも及ぶ世界平和・世界連邦の理念を放棄しようとしている。だが、困難な時代だからこそ理念を現実の名の下に押し潰してはならない。むしろ現実を批判するためにいま理念が必要なのではないだろうか。

それでは私たちの進むべき道はどこにあるのだろうか。それは逆にリベラルな個人の力をどこまでも強め、自らの限界を乗り越えさせていくほかない。リベラルな個人からなるアソシエーション、もしくは、アソシエーションによって生まれるリベラルな個人を育成していくことが二一世紀の日本の市民運動を再生する鍵なのである。それにはまずどんなに困難な道のりであろうとも人々が暴力に走るその前に、言論の力に対する人々の信頼をもう一度取り戻す必要がある。

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コメント / トラックバック2件 to “第4部 沈黙する日本の民主主義”

  1. Gitarcla said

    すごく難しい部分もあるんですけど先日客先にいって感じたのが日本てなんでこんなに抑圧されてるんだろう?!と思いました。 なんか外じゃなくて集団の内に向かうM的な性向というか。。個が抑圧されてるでしょうね。おっしゃるように言論への信頼、また吟味する力、主体的にどう関わるかを育てないとK総理のような劇場型=扇動的政治家が現れるとすぐ傾いてしまいます。逆にシビリアンコントロールをしやすい統治体制をしいているのでしょうか。 日本人は戦いに負けずして自滅するのではないかと思う時もあります。

  2. まったくおっしゃる通りです。企業に勤めていると誰でもわかりますが、日本人も個人主義になってきたとはいえ、集団内のプレッシャーがほんとに厳しい国ですね。それを突き崩して、イノベーションを生み出す社会や個人を作るにはどうしたらいいかをもっと真剣に成って考えるべきですね。貴重なコメントありがとうございます。またよろしくお願いいたしますね。

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