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Shota Maehara's Blog

『世界共和国へ』(第3部) 【著】柄谷行人

Posted by Shota Maehara : 8月 12, 2007

私がここで光を当てたいのは本書で語られている部分ではなく、むしろあまり語られていない部分である。特にこの最後の結論部分とかつて書かれた『倫理21』とのつながりについてである。なぜカントは人間の「理性」ではなく、「戦争」(敵対性)をより根源的なものと見たのか。そして逆説的に、これが世界平和へ導くと考えたのか。もし世界共和国がただのユートピアではなく、「理念」であるならばこの問いを避けて通ることはできない。

まず思い返すべきなのは、カントが啓蒙主義への批判から出発しているということである。かつての啓蒙主義者は戦争の原因が、空想や迷信による感情的な対立にあると考えた。だが、カントは本当に厄介な原因は、理性自身が生み出してしまう敵対性(友/敵の区別)にあると見抜いていた。たとえば、宗教やネーションは啓蒙によって取り除ける単なるフィクションではない。それは理性が自らの限界を超えて問うてしまう形而上学的問題なのである。だから私たちが直面する宗教やナショナリズムの戦争はより激しく、また解決することが難しい。

では一体どうしたらいいのだろうか。この観点から、カントの普遍的な道徳法則「他者を手段としてのみでなく同時に目的(自由な主体)として扱え」を眺めたとき、その意味が明らかとなる。この普遍命題は確かに合理的基準に合わない。なぜなら損・得で動く資本制社会で他人を手段として扱うことは避けられないからである。ゆえに資本制社会一般の道徳にではなく、自らが立てた道徳命題に自らが服すという態度以外では実行不可能である。つまり、まず自ら「自由であれ」という義務(仮説)を立て、次にそれに自ら服して行動する(証明する)ことである。これをカントは「理性の自律」と呼ぶ。

それはフロイトの「死の欲動」という考えと比較するとより理解することができる。フロイトは戦後、悪夢を繰り返し見る戦争神経症などのケースに遭遇した。ここから人間の根源には快・不快を基準とする合理的判断を超える、死の欲動があると考えた。同時に、理性は苦痛を自ら繰り返すことでそれを克服しようともしていた。そこで彼は、「超自我」の起源を、社会一般の道徳とは別のところに見出すべきだと考えた。つまり、かつて外に向かっていた人間の死の欲動(攻撃性)が自分自身に向かった時に生じるものだと考えたのである。理性は苦痛を受け容れることによって、自らを統御する超自我を生み出すのである。

著者はここに二一世紀の「倫理」―他者を自由として扱う契機を見出す。つまり彼らに共通しているのは、合理性を追求する理性が消去してしまう他者(物自体)の存在を認めた上で、それによって自己を励ましさらに認識を拡張していこうとする啓蒙主義的態度である。これは自らを超える何らかの力によって、自己を啓蒙する理性の運動である。この啓蒙化の過程で生まれる自己を統御する超自我の働きこそが「倫理」の核心なのである。かくしてカントの世界共和国は、人間の根源にある「戦争」(敵対性)を認識し、それを自己を抑制する超自我に変えていくことによって実現されるのである。

歴史を振り返っても、国連は第二次世界大戦の反省に立って、各国が過ちを繰り返さないために自ら課した制約である。同様に、日本の憲法九条は、太平洋戦争へと駆り立てた攻撃性が自分自身へ向かった超自我と見なすことができる。それは今も日本の戦争を制約し続けている。したがって、私たちは安易に楽観的になるべきではないが、決して過度に絶望的になる必要はない。なぜなら人間の攻撃性を認識することが、世界共和国へ至る最良の近道であることを本書は教えているからである。

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