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Shota Maehara's Blog

グールドにおける「コンサート」と「レコード」の関係―開かれた対話をめぐって

Posted by Shota Maehara : 8月 6, 2007

「コンサートかレコードか。 グレングールドは、コンサートを拒否した天才であり、いまのインターネットの状況をメタファーするのに、これほど格好の人物はいません。

コンサートは観客との対話であり、いかにレコードが完成されたものとはいえ、死んでいる芸術です。私は、レナード・バーンスタインが弁明してからはじめる録音や、ゴールドベルグ変奏曲を聴きますが、やはり、私はバーンスタイン派のような気がしています。

マクルーハンは、メディアはメッセージだといいました。グレングールドは、マクルーハンと同じ街で過ごしていましたが、グレン・グールドの人生こそ、ひとつのメッセージになっていると感じています。」(スポンタ中村)

―芸術/政治の対話が開かれる瞬間―

スポンタ中村さん、コメントいただき大変嬉しく思っています。短いながらまさに核心を突くご意見です。本来ならここで答えを急ぐべきではなく、このブログを通して少しづつお答えしていくべき私の生涯のテーマかと思います。           

私もスポンタ中村さんと同様に感じてグールドのようなスタイルに可能性を見出せなかった時期もありました。しかし、「レコード」と「コンサート」との対比は、もしかするとバフチンが述べた「詩はモノローグ」で、「小説はポリフォニー」であるという紋切り型に陥ってしまいます。しかし、詩は本来自己対話ではなく、エス(無意識的なもの)にある自分ならぬものが口をついて出てくるものだとするならば、自分の外にいる相手との対話だけが多様な「対話」ではないといえます。

ヴィム・ベンダースの映画『ベルリン天使の詩』を覚えておいででしょうか。そこでは天使たちが街に降りて、人々を見守っているのですが、彼らにはあらゆる人々の内なるささやき声(苦悩・喜び・怒り・悲しみ・孤独など)が聴こえてくるのです。ベンダースが天使を詩人のアレゴリーとして描いていることは明らかでしょう。両者は無意識のように人の声が絶えず自分の中に流れ込んできてしまうのです。これも一種の対話とは呼べないでしょうか。          

その上でなお、次のように問うことができます。芸術家や哲学者ではグレングールド派で良いとしても、実践家・ジャーナリストとしてはバーンスタイン派であり、またあらねばならないと。私は頂いたご意見を良く考えた上でそのように受け止めました。それでは私の立場は?と訊ねられるでしょう。私はむしろ理論家と実践家の二つの道に引き裂かれ続けるべきなのではないか、と考えています。この不自然さに耐えることが私の変わらぬスタイルなのです。

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コメント / トラックバック1件 to “グールドにおける「コンサート」と「レコード」の関係―開かれた対話をめぐって”

  1. dbadmin said

    しかし・・・TVと同じで、皆「もっともっと」になってしまい、エスカレートしちゃいますね。 皆 馴れてしまうんですね。 少々疲れます。

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