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Shota Maehara's Blog

資本主義の弁証法―倫理的対抗運動のノート

Posted by Shota Maehara : 8月 3, 2007

「帝国」対「マルチチュード」

世界秩序は言い様のない閉塞感に満ちている。それはもはや人々がこの資本制経済以外のオルタナティヴが在り得ないのではないかと感じ始めているからである。

確かに、ネグリ/ハートが主張するように、資本の帝国に対して、世界各国の底辺に産み落とされる「マルチチュード」による政治革命の可能がないわけではない。マルチチュードとは、同一性を軸に人々を民族や国民という価値観に纏め上げていく統治のあり方に対して、一方で多様な差異を持った個を肯定し、他方で各々の共通性を介してリンクすることで人々を結び付けていく運動の形態である。したがって、これは、本来グローバルなものとなるはずだった。

しかし、実際は、9.11のテロ事件にも示されたように、民族主義的、もしくは宗教原理主義的テロリズムとしてローカルな装いをまとって現れている。その他にもチョムスキーなどが参加する「世界社会フォーラム」などのグローバルな左翼運動は存在するが、理論的なオルタナティヴを提示するまでは至っていない。むしろ、実践的な草の根運動こそが大事であると考えているかのようである。またそのために運動がますます過激化するという悪循環、負のスパイラルに陥っている。

フラット化する世界と「ウェブ進化」

Googleをはじめインターネットの世界では世界秩序に対する緩やかだがラディカルな変革の波が起こりつつある。そこでは天然資源の希少性ではなく情報という資源の過剰に基づいた新しい経済の潮流が見られる。もしこうした情報をネット上で無料にユーザーに提供し続けることができれば、等しく個人が創造性を発揮し、世界がフラット化=平等化する可能性は飛躍的に高まるかもしれない。それゆえに、むしろ左翼の対抗運動よりもこちらの変革のほうがはるかに確実で現実味があると見る向きもある。

だが、資本という名の帝国に対抗する「マルチチュード」(多数なる群集)のデモやテロリズムが反動として国家の暴力を招き寄せているように、資本の秩序を内部から食い破ろうとするネットビジネスやユーザーも大企業の抵抗の前に取り込まれてしまいかねない状況にある。

前者にはグローバル資本主義に対する「経済学」がなく、反対に後者にはグローバル資本主義に対する「政治学」がない。そのため、戦争や環境破壊や貧困といった地球規模の課題を根源的に問うことができない。要するに、彼らはいずれもインサイド(inside)に囚われすぎていて、アウトサイド(outside)へ移動する批評性が欠けているのだ。そして、なにより彼らがともに見落としているのは、グローバル資本主義の経済学と政治学の結節点《政治経済学》である「国家」(官僚)という独立した階級の存在なのである。

資本の弁証法―倫理的対抗運動

この結果、私は、このどちらでもない倫理的対抗運動の可能性を独自に探っていかなければならないと考えるようになった。倫理的という意味は、単にそれが重要だからでなくて、社会の豊かさを待ってはじめて可能になる運動だからである。

逆説的に共産主義のユートピアが示した命題の正しさは西側諸国で証明された。つまり個人は社会全体が豊かになって初めて自由になれるということである。社会が貧しいまま、上層部だけ自由に羽ばたこうとしても社会の重力に負けて失墜せざるを得ない。アリストテレスが言うように、人間は個人としてあるのではなく、まず社会的な動物である。個人の才能が伸ばせるためにはまずその社会的条件が整っていなければならない。

したがって、自由な諸個人による運動は、まずもって豊かな社会の所産なのである。かつて古代ギリシャで、奴隷を所有した少数の人間だけが、何の手段や目的にも奉仕しない表現活動の自由が許されていたように、現代ではオートメーション化による生産性の向上とテクノロジーの進歩が諸個人に国家や企業の利害関係とは関わりなく意見表明する自由を与えた。

こうして人は徐々にナショナリズムではなく世界市民として生き且つ行動するようになる。そして豊かさの次に倫理的な社会が来るかどうかはこうした運動にかかっているのである。では、なぜ誰も手にした自由を使って次の倫理的な社会を築くためのアクションを起こそうとしないのだろうか。まさしくそれこそが今日私たちが直面している難問なのだ。

マスタープラン

私は、今後十年単位で、新しい倫理的対抗運動を築き上げるための準備を進めていく必要があると考えている。ゲーテの表現を借りれば、「星のように急がず、だが休まずに」。そのため以下の二つの理論的作業によって、三つ目の実践的課題に取り組むことを目指す。

1.世界資本主義システムの歴史的構造の解明(特に、イスラムやアジアから資本制経済の歴史をもう一度眺めることで、資本における「国家」の役割を明確化すること)

2.自由の構成体としての新しい運動体の提示(絶対に個人を抑圧せず、目的に応じて集まり目的を遂げたら解散する運動形態とその仕組み)―国家・企業の近代官僚組織とは異なる運動体

3.地球規模の貧困、環境、戦争の問題に対処していくことで、我々の文明を維持する。

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コメント / トラックバック4件 to “資本主義の弁証法―倫理的対抗運動のノート”

  1. jyunjyun88 said

    「星のように急がず、だが休まずに」ってゲーテの言葉素敵ですね。心に残る言葉です。

  2. jyunjyun88さん。コメントありがとうございます。そうですね。やっぱり文学者のことばには、とてつもない力がありますよね。そういうことばをこれからも大事にしていきたいと思っています。

  3. ロマンサー said

    いつも興味深く読ませていただいております。あなたの仰るように、いまは辛抱して、種をまき育てておくべき時期でしょうね。世の中は急速に変化していますが、それに惑わされず自分の「才能」を信じて努力することが重要でしょうね。それが今後の活躍の時にもいきてくると思います。ビジネスであれ、思想であれ、いまはなぜかみんな短期的にしかものを見れなくなって、長期的な視野を失ってしまっています。私はあなたがそれを切り開いてくださることを期待します。

  4. コメントありがとうございます。あなたの仰るとおりだと思います。国際紛争やITの進化、そして家族のあり方に至るまで、今ほどヴィジョンがもてない時代はないですね。なにより真っ当な「言葉」が社会に欠けているような気がします。安倍首相の退陣を口汚く罵るのは結構ですが、そのウラで進行している社会変化に目を向けなければなりません。アメリカもラムズフェルドなどの右翼タカ派(ネオコン)が力を失いつつある中、結果的にリベラル寄りになった。今後二つの道がありうる。 (1)国家の右翼タカ派による極端な戦後民主主義への反動期が過ぎて、表向きリベラル寄りになる。<帝国主義的段階> (2)そのウラで、国家の軍事力強化、テクノロジー/エネルギー(石油)の争奪戦、国家・企業の民営化に名を借りた、官僚化の進行。要するに形を変えた<ファシズム的段階>。 もちろんこうした見方は、政治哲学者ハンナ・アレントから受け継いだものです。一人の市民として、この筋書きの中でどこに居場所を見出すべきか。理性的な各自の判断が問われているような気がします。ビジネス・パーソンにとっても国家が今後どう動くのかは死活的な意味を持ってくるでしょう。

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