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Shota Maehara's Blog

グレン・グールドについて―電子メディア・ルネサンスの楽聖

Posted by Shota Maehara : 8月 2, 2007

私が、グールドに魅せられるのは、自己を徹底的に無化しながら、あらゆるものに「声」を与えようとしたその所作にある。さらにいえば、これは現代の「対話」の問題へと我々をいざなう。

たとえば、グールドはコンサートを拒否して、レコード音録へ自分の活動を移した。これは一見すると彼が対話を拒否したようにも見える。しかし、彼は、その一方でレコードを通して、もしくはラジオを通してマス(大衆)に訴えかけようとする。そもそも、コミュニケーションを拒絶する人間がこんなことをするだろうか。

グールドは、コンサートにおける演奏者と聴衆の、能動と受動、主と従の関係を嫌がる。そもそも彼の音楽解釈自体が作曲家の言う通りに演奏すればよいという考えと対極的であった。彼は何よりも作曲者の特権という意味での個人主義を批判する個人主義者であった。

こうしたグールドの姿から透かし見えてくる彼の本質の一端とはいかなるものであろうか。それは、一言で言ってしまえば、特権的な主体を無化していくことによって、聴衆を含めた音楽のマス・コラボレーションを実現することである。言うまでもなく、それを可能にしたのはオーディオ機器などの電子メディアの発達である。聴衆は私室で音楽の音量その他を勝手に変えることで能動的に音楽の創造にかかわる。

このことはグールドがルネサンスからバロックのバッハに極まる対位法音楽を生涯愛し続たことと深くかかわっている。彼は次のように述べている。

作曲家として、彼らは人間の心と人間の耳が複数の同時進行的関係を感知し、その多様な流れを追い、そのすべてに関わることは可能であり、十分あり得ることであり、現実的であると認識した最初の人々だった。その関係はどのひとつにも特別な優位性を与え、他の二つ、三つの声部が最高の、あるいは最低の、あるいは主要基礎旋律、その他もろもろに身をかがめ、へりくだることを要求していない。音楽へと発展するはずの、そして今、おそらく初めて音楽となりつつあるこの環境の盛り皿を、少なくともいくつかの側面で理解したという意味で、彼らは最初の現実的な人々だったと思う。(『グレン・グールド変奏曲』ジョン・マグリーヴィ編、木村博江訳、一九八六年)

ここにグールドの音楽哲学が結晶している。しかし、我々は、この「現実的」という意味を誤解しないようにしよう。それは単なるリアリズムとは異なるし、スーザン・ソンタグが呼んだ「ラディカルな併置の芸術」(『反解釈』)とも似て非なるものだ。まったく異なったものを併置するにせよ、そこには二つの異質なものを乗せる「台」(タブロー)があることは疑われていない。そしておそらく意外な組み合わせが芸術的効果を生み出すと考える作者の意図があらかじめ存在している。

むしろ、バッハそしてグールドが行おうとしたことは、ジェームズ・ジョイス『フィネガンズウェイク』における多言語の無数の並立による言語の実験に近い。ジョイスは、すべての平凡な人々に独立した声を与え、それらが多声のハーモニーを奏でるようにする。そこに、特権的な作曲者としてのジョイスはなく、指揮者としてのコンサートマスターとしてのジョイスだけがいる。

もしグールドが、バッハよりも対位法やポリフォニー(多声)芸術をさらに推し進めたとするなら、彼がテクノロジーの持つ力を利用して、従来の楽曲の解体と再創造を行ったからだ。電子テクノロジーによって音録・編集を繰り返すことで、理想的に、作者の押し付けがましさを避けながら、あらゆるものは声を与えられ、同時に連結し合う。こうしたユビキタスが初めて可能となる。グールドはそこで自分を限りなく無化し、人々の声をつなぐ媒介、黒子役となることに徹した。それによってどれほど逆説的にグールドの名がクローズアップされてしまったとしても。

私はこういえば許されるだろうか。グレン・グールドこそ電子メディア・ルネサンスの楽聖であった。そして、同時に偉大なる楽聖は生涯無名であり続けようとしたと。

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コメント / トラックバック4件 to “グレン・グールドについて―電子メディア・ルネサンスの楽聖”

  1. 旅人 said

    凄いの一言です。知らない名前です。世界はまだまだ広い。極めた人でなければいえない言葉ですね。また来ます。(editaから)

  2. パイオニア said

    このブログの著者は凄まじいの一言ですね。この知的なセンテンスがよどみなく流れていく様は、それだけでも驚愕です。ホントに世界は広いと思わざるをえません。

  3. コメントいただきまして感謝しています。カナダが生んだ今世紀最大のピアニスト、グレン・グールド。彼を考えることは、電子メディア時代に自分がどう生きるかを考えることでもあります。今度はもう少しシンプルにわかりやすく書きたいと思います。ありがとうございました。

  4. スポンタ中村 said

    >グレン・グールドこそ電子メディア・ルネサンスの楽聖であった。そして、同時に偉大なる楽聖は生涯無名であり続けようとしたと。おっゃる通りですね。ただ、それは、メタなアナライズでもある。メディアに関心がある人の言論の矛先がどうしてもマクルーハンに言ってしまう。そして、その街・その時代には、グールドが…。まるで、ゲーテと楽聖・ベートーヴェンの関係のように…。ただ、グールドは実務家でもあってわけで、寒さで手が動かない。ピアノがホールによって違っている。椅子の高さが…。(これは椅子を持ち込むことで解決したことは有名)などという不確定要素が、彼をしてレコーディングアーチストの道を選ばせたことはもうひとつの事実でもある。グールドのコンサートの特徴は、自分のピアノの音よりもハミングの音の方が大きかったこと。このエピソードは韓流ドラマの傑作「冬のソナタ」でも引用されている。私は、この無邪気なグールドの演奏スタイルについて、彼が、彼の演奏の第一番目の観客だったのかもしれぬ。と、捉えている。それこそが、演奏の神化であり、筆者の指摘するグールドの無名化・無化・黒子化ということかもしれぬ。メタな議論と批判してしまったが、グールド自身、メタな議論を好んだし、メタな存在であろうとしていた。そこが、彼の魅力であり、天才のところだろう。

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