I am the vine; you are the branches

Shota Maehara's Blog

 グローバリゼーションと「風土」の発見―啓蒙から神話へ

Posted by Shota Maehara : 8月 1, 2007

風土―人間��的考察 (岩波文庫)

風土―人間学的考察 (岩波文庫)

和辻哲郎は、昭和三年にドイツから帰国し、後に『風土―人間学的考察』としてまとめられる一連の講義を行っている。それは世界の地域をモンスーン型・砂漠型・牧場型の三つの類型に分け、それぞれの環境世界でどのようなタイプの人間や社会が生まれてくるかを考察したものである。素朴に読めば、異なる文化を尊重しよういう穏当な主張である。ただし、私にはどうしても次の一点が疑問であった。すなわち、なぜ彼はこの時期に、「風土」という前近代的で土着的でなかば捨て去られていたはずの自然的・文化的要素に着目したのかということである。

この書は、30年代に日本が大東亜共栄圏を提唱し、アジアやアメリカとの太平洋戦争に向かう時代の雰囲気を確実に帯びている。当時の時代状況を端的に言えば、(1)19世紀以来の自由貿易による経済のグローバル化の進展、(2)20世紀に入りそれに伴って現れた帝国主義国家の台頭、そして、(3)マルクス主義運動の弾圧と左翼インテリの天皇制への「転向」という一続きの過程としてみることができる。

これら三つの局面に共通しているのは何か。それは近代化に伴う広い意味での「合理主義」の徹底化である。一方でかつて離れ離れであった世界が資本制経済によって結び合わされ、同質化する、他方で国内では官僚制国家は、教育や新聞や交通網の発達などを通して中央集権制を確立していく。実は、これらと対抗して大正以降現れたマルクス主義者もその理論的正しさを盲従し、日本の封建的な伝統や権威の破壊者として近代化の影の立役者であった。

ここにマルクス主義運動の知られざる盲点がある。それはマルクス主義がもたらすフラット化=平等化の二面性である。確かにマルクス主義は「理論」の力によって歴史を捨象し、社会を捨象し、それによって人々を封建的伝統や因習から解き放つ進歩的な側面があった。だが、その反面で、階級意識を植え付けると称して人々を共同体から切り離し、社会のなかで孤立化させた。こうした中で世界恐慌が起こると人々は不安に駆られ、マルクス主義の抽象的理論に飽み疲れ、より生活意識に密着した「情緒」へと揺り戻される。こうして彼らは自らの拠り所として日本の「風土」である「天皇制」を再発見したのである。

かくして、グローバル経済や国家に対して、啓蒙主義的な運動が人々を守る力となりえないばかりかむしろ共犯だと気づかされた時、悲劇が起こる。たとえ「非合理」だと分かっていながら、人々は肌の色や民族や宗教といった自然的・文化的要素を絶対化しそれに縋りつく。これを非合理的だと笑うことはたやすい。だがこの神話はまぎれもなく啓蒙的理性自身が生み出したものなのである。かつて人は、物事を合理的なるがゆえに信じてきた。いまや人は物事を非合理的なるがゆえに尊いと感じ始める。近代国家や資本主義や科学をこうした破滅的な形で乗り越えようとするとき、かつてもいまも啓蒙は神話へと転落するのである。

広告

コメント / トラックバック4件 to “ グローバリゼーションと「風土」の発見―啓蒙から神話へ”

  1. マルクス主義やフェミニズム、そしてカルチュラル・スタディーズやポスト・コロニアルまで、いずれも社会の中で差異を解消することを目指してきた。つまり階級や男女や文化の差は幻想であり、すべては平等であると宣言してきた。しかし、グローバリゼーションの進展によって生まれた格差や社会変動に対して、現代の「特性のない人間」は抵抗の基盤として無くなった筈の差異を求めてさ迷っている。その光景は宗教原理主義やテロリズムそしてスピリチュアルなものへの偏愛という形で、1930年代の「風土」/「天皇制」に至る過程を過激に反復しようとしているかのようである。

  2. 啓蒙の限界は、リベラリズムの限界でもある。リベラルな運動は、個人の諸権利の平等を唱う。ただし、それは人をいわば無力のまま社会に放り出すことになりかねない(「剥き出しの生」)。例えば、コミュニティーとして被差別部落は、物質的な貧しさにもかかわらず、精神的連帯感どこか力強く貴族的なところがあった。しかし、60年以降の高度経済成長の恩恵によって、物質的豊かさを得ると、コミュニティーとしての力はどんどん弱まる。いまや、多くが都市に移り住み、バラバラになった。現在、必ずしも部落差別は、なくなっていないがそれをただして行こうとするエネルギーはどこにもない。かつての運動家はこの危機感を共有しているだろう。

  3. フラットな社会=平等化された世界。コミュニティーが崩壊しのっぺらぼうになった姿こそ「先進国病」である。

  4. マルクスの『資本論』:<労働価値と価値形態のアンチノミー>形式でいくら問い詰めても、「価値」なるものが最後まで残ることは否定できない。同じように、いくら啓蒙しても、「宗教」なるものが最後まで残ることは否定できない。では我々はこの「価値」、「宗教」なる実体のないものをフェティッシュに愛でるべきだというのだろうか。単に「価値」なるものを否定する啓蒙主義者を私は嫌う。その存在を認めた上で、それを明らかにしていこうとする態度が21世紀には不可欠だ。永遠の自己を啓蒙する理性の運動。

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中