‘音楽’ カテゴリーのアーカイブ
ロックン・ロールとは駆け抜ける意志である
投稿者: akizukiseijin : 6月 9, 2009
先日NHKのSongsという番組で、矢沢永吉さんの特集を観る機会がありました。特に印象深かったのは今回娘さんが歌手デビューしたことに関連して次のようにおっしゃっていたことです。
「はじめはやめとけってさんざん言ったよ。でも、それでもどうしてもやりたいって言うから、それなら良し分かったと。でもやるからには腹くくれよって言いました。これは今の若い人すべてに言えると思うんだけど、今の時代何か夢中になれるものをもっているっていうことがとっても重要なんじゃないかな。その大きい小さいは全然関係ないよ。その人にとってそれが本当に大切なものならね。」
やっぱり永ちゃんカッコいいなと思いました。尊敬してしまいます。この自分の信念をまっすぐに貫いていく姿勢(スピリット)にやはり只者ではないオーラを感じます。こういうポジティブな力を持っているからこそいまも多くのファンが彼を愛し、魅せられ、励まされているんですね。彼が30数年間ステージに立ち続けたことがそのままロックスターであり続ける存在証明だと感嘆しました。矢沢永吉よ、永遠なれ!!!
―「駆け抜ける強靭な意志こそがロックン・ロールである」
グールドにおける「コンサート」と「レコード」の関係―開かれた対話をめぐって
投稿者: akizukiseijin : 8月 6, 2007
「コンサートかレコードか。 グレングールドは、コンサートを拒否した天才であり、いまのインターネットの状況をメタファーするのに、これほど格好の人物はいません。
コンサートは観客との対話であり、いかにレコードが完成されたものとはいえ、死んでいる芸術です。私は、レナード・バーンスタインが弁明してからはじめる録音や、ゴールドベルグ変奏曲を聴きますが、やはり、私はバーンスタイン派のような気がしています。
マクルーハンは、メディアはメッセージだといいました。グレングールドは、マクルーハンと同じ街で過ごしていましたが、グレン・グールドの人生こそ、ひとつのメッセージになっていると感じています。」(スポンタ中村)
―芸術/政治の対話が開かれる瞬間―
スポンタ中村さん、コメントいただき大変嬉しく思っています。短いながらまさに核心を突くご意見です。本来ならここで答えを急ぐべきではなく、このブログを通して少しづつお答えしていくべき私の生涯のテーマかと思います。
私もスポンタ中村さんと同様に感じてグールドのようなスタイルに可能性を見出せなかった時期もありました。しかし、「レコード」と「コンサート」との対比は、もしかするとバフチンが述べた「詩はモノローグ」で、「小説はポリフォニー」であるという紋切り型に陥ってしまいます。しかし、詩は本来自己対話ではなく、エス(無意識的なもの)にある自分ならぬものが口をついて出てくるものだとするならば、自分の外にいる相手との対話だけが多様な「対話」ではないといえます。
ヴィム・ベンダースの映画『ベルリン天使の詩』を覚えておいででしょうか。そこでは天使たちが街に降りて、人々を見守っているのですが、彼らにはあらゆる人々の内なるささやき声(苦悩・喜び・怒り・悲しみ・孤独など)が聴こえてくるのです。ベンダースが天使を詩人のアレゴリーとして描いていることは明らかでしょう。両者は無意識のように人の声が絶えず自分の中に流れ込んできてしまうのです。これも一種の対話とは呼べないでしょうか。
その上でなお、次のように問うことができます。芸術家や哲学者ではグレングールド派で良いとしても、実践家・ジャーナリストとしてはバーンスタイン派であり、またあらねばならないと。私は頂いたご意見を良く考えた上でそのように受け止めました。それでは私の立場は?と訊ねられるでしょう。私はむしろ理論家と実践家の二つの道に引き裂かれ続けるべきなのではないか、と考えています。この不自然さに耐えることが私の変わらぬスタイルなのです。
グレン・グールドを聴く:音楽の限界/限界の音楽
投稿者: akizukiseijin : 8月 6, 2007
カナダの孤高の天才ピアニスト、グレン・グールド。天才という言葉を聴くたびに、私はいつも決まってグールドとイギリスのユダヤ系哲学者・ウィトゲンシュタインを想い出す。天才とは、この世ならぬ存在だ。目はうつろ、注意散漫で、どこか上の空。要するに、この社会のコード(規則)からたえず逸脱している。
グールドは、1932年にカナダのトロントで生まれ、幼少の頃からのその才能を発揮する。独自のバッハ解釈で地位を築くが、その従来のテンポを全く無視し、対位法やポリフォニーを重視した特異な演奏法によって知られる。そして何より、ある時期から聴衆の前に全く姿を見せず、スタジオ音録のみに向ったその孤高のスタイルも彼のミステリアスな雰囲気の大きな要因となっている。
現代西欧の知識人や表現者で、彼の音楽に影響を受けなかったものはいない。フランス映画監督のジャン・リュック・ゴダールやアメリカのイスラム系知識人のエドワード・サイードそして、トマス・ハリス原作『羊たちの沈黙』の「人食いハンニバル」ことレクター博士にいたるまでグールドの崇拝者である。彼らモダニズムの破壊者は、一様に西洋の伝統的な古典文化への深い造詣によって自己を形成してきた。その意味では根っからのモダニストであった。しかし、今の世代にとってグールドに傾倒することは一体何を意味するのだろうか。
私は、このときほど自分が紛れもなく中流階級の出であることとアンダーカルチャーの影響に染まっていることを意識させられる瞬間はない。私の大学時代のヒーローやヒロインは、60年代のアメリカを代表するバンドのヴェルヴェット・アンダーグランドであり、ビートニク詩人のパティ・スミスであった。つまり、私はもっと泥臭い種族の一員であり、純粋なアートやカルチャーなどがもはや意味を成さなくなった時代の申し子なのである。
それでも私は今日もモダニストであり続けたいと願ってグールドを聴く。実際の現実と違う芸術作品のもう一つの現実の「自律性」の方を信じ、誰もが商品(手段と目的の連鎖)として生きざるを得ない世の中で唯一私だけの「自由」を確保できる空間を求めて。