Akizukiseijin’s Weblog

Free Space of Critical Thinking

‘映画’ カテゴリーのアーカイブ

チャップリン『独裁者』の演説

投稿者: akizukiseijin : 12月 7, 2008

 

e38381e383a3e38383e38397e383aae383b3e58699e79c9f

——————————————————————————–

I’m sorry but I don’t want to be an Emperor. That’s not my business.
I don’t want to rule or conquer anyone.
I should like to help everyone if possible, Jew, gentile, black man, white.

申し訳ない 私は皇帝になりたくない
支配はしたくない
できれば援助したい ユダヤ人も黒人も白人も

We all want to help one another, human beings are like that.
We all want to live by each other’s happiness, not by each other’s misery. We don’t want to hate and despise one another.
In this world there is room for everyone and the earth is rich and can provide for everyone.

人類はお互いに助け合うべきである
他人の幸福を念願として お互いに憎しみあったりしてはならない
世界には全人類を養う富がある

The way of life can be free and beautiful. But we have lost the way.
Greed has poisoned men’s souls has barricaded the world with hate, has goose-stepped us into misery and bloodshed.

人生は自由で楽しいはずであるのに
貧欲が人類を毒し 憎悪をもたらし 悲劇と流血を招いた

We have developed speed but we have shut ourselves in, machinery that gives abundance has left us in want.
Our knowledge has made us cynical, our cleverness hard and unkind.

スピードも意思を通じさせず 機械は貧富の差を作り
知識をえて人類は懐疑的になった

We think too much and feel too little,
more than machinery we need humanity,
more than cleverness we need kindness and gentleness,
without these qualities, life will be violent and all will be lost.

思想だけがあって感情がなく
人間性が失われた
知識より思いやりが必要である
思いやりがないと暴力だけが残る

The aeroplane and the radio have brought us closer together.
The very nature of these inventions cries out for the goodness in men, cries out for universal brotherhood for the unity of us all.
Even now my voice is reaching millions throughout the world, millions of despairing men, women and little children,
victims of a system that makes men torture and imprison innocent people.
To those who can hear me, I say “Do not despair”.

航空機とラジオは我々を接近させ
人類の良心に呼びかけて 世界をひとつにする力がある
私の声は全世界に伝わり 失意の人々にも届いている
これらの人々は罪なくして苦しんでいる
人々よ 失望してはならない

The misery that is now upon us is but the passing of greed,
the bitterness of men who fear the way of human progress,
the hate of men will pass and dictators die,
and the power they took from the people will return to the people,
and so long as men die, liberty will never perish.

貧欲はやがて姿を消し
恐怖もやがて消え去り
独裁者は死に絶える
大衆は再び権力を取り戻し
自由は決して失われぬ!

Soldiers, Don’t give yourselves to brutes,
men who despise you and enslave you – who regiment your lives,
tell you what to do, what to think and what to feel,
who drill you, diet you, treat you as cattle, as cannon fodder.

兵士諸君 犠牲になるな
独裁者の奴隷になるな!
彼等は諸君を欺き
犠牲を強いて家畜の様に追い回している!

Don’t give yourselves to these unnatural men, machine men, with machine minds and machine hearts.
You are not machines. You are not cattle.
You are men.
You have the love of humanity in your hearts.
You don’t hate, only the unloved hate. Only the unloved and the unnatural.
Soldiers! Don’t fight for slavery, fight for liberty.

彼等は人間ではない! 心も頭も機械に等しい!
諸君は機械ではない!
人間だ!
心に愛を抱いてる
愛を知らぬ者だけが憎み合うのだ!
独裁を排し 自由の為に戦え!

In the seventeenth chapter of Saint Luke it is written “the kingdom of God is within man” -
not one man, nor a group of men – but in all men – in you, the people.

“神の王国は人間の中にある”
すべての人間の中に! 諸君の中に!

You the people have the power, the power to create machines, the power to create happiness.
You the people have the power to make life free and beautiful, to make this life a wonderful adventure.

諸君は幸福を生み出す力を持っている
人生は美しく 自由であり すばらしいものだ!

Then in the name of democracy let’s use that power – let us all unite.
Let us fight for a new world,
a decent world that will give men a chance to work, that will give you the future and old age and security.

諸君の力を民主主義の為に集結しよう!
よき世界の為に戦おう!
青年に希望を与え 老人に保障を与えよう

By the promise of these things, brutes have risen to power, but they lie.
They do not fulfil their promise, they never will.
Dictators free themselves but they enslave the people.

独裁者も同じ約束をした
だが彼らは約束を守らない!
彼らの野心を満し 大衆を奴隷にした!

Now let us fight to fulfil that promise.
Let us fight to free the world, to do away with national barriers, do away with greed, with hate and intolerance.
Let us fight for a world of reason, a world where science and progress will lead to all men’s happiness.
Soldiers! In the name of democracy, let us all unite!

戦おう 約束を果す為に!
世界に自由をもたらし 国境を取除き 貧欲と憎悪を追放しよう!
良心の為に戦おう 文化の進歩が全人類を幸福に導くように
兵士諸君 民主主義の為に団結しよう!

Hannah, can you hear me?
Wherever you are, look up Hannah.

ハンナ 聞こえるかい
元気をお出し

The clouds are lifting, the sun is breaking through.
We are coming out of the darkness into the light.
We are coming into a new world.
A kind new world where men will rise above their hate, their greed and their brutality.

ご覧 暗い雲が消え去った 太陽が輝いてる
明るい光がさし始めた
新しい世界が開けてきた
人類は貧欲と憎悪と暴力を克服したのだ

Look up Hannah.
The soul of man has been given wings – and at last he is beginning to fly.
He is flying into the rainbow – into the light of hope, into the future,
the glorious future that belongs to you, to me, and to all of us.
Look up hunna. Look up.

人間の魂は翼を与えられていた やっと飛び始めた
虹の中に飛び始めた 希望に輝く未来に向かって
輝かしい未来が君にも私にもやって来る 我々すべてに!
ハンナ 元気をお出し!

カテゴリー: 映画 | コメントする »

ジャッキー・チェン讃歌―人命を代償にする革命は崇高ではない

投稿者: akizukiseijin : 11月 6, 2008

ジャッキー・チェン(Jackie Chan)は、アジアが世界に誇るアクションスターである。彼は、一九五四年に香港で生まれる。七歳から京劇や中国武術を学び、その後スタントマンとして映画の世界に飛び込んだ。従来暗いイメージだったカンフー映画にコメディーの要素やストーリー性を取り入れることで、ファン層を広げることに成功した。

確かに修行を通して師弟関係を描き、最後に強敵を倒すという純粋なカンフー映画も素晴らしかったが、ストーリー(歴史)を織り交ぜたことで映画は深みを増したといえる。例えば、一九八三年の『プロジェクトA』はその代表作だ。この作品は二〇世紀初頭のイギリス殖民統治下の香港が舞台である。この作品で彼は主演、監督、武術指導、脚本を務めている。特に高い時計塔から落ちるスタントは圧巻としか言いようがない。内容はイギリス海軍や沿岸警備隊が海賊を取り締まるというストーリーで、サモ・ハン・キンポーやユン・ピョウなどの多くの名優が出演している。

一九八七年にはこの続編として『プロジェクトA2 史上最大の標的』が日本先行で公開された。キャスティングは前作ほど華やかではないものの、内容はぐっと深みを増している。特に清朝末期の香港が舞台となっているため、腐敗した警察内部と暗黒街の首魁の癒着、革命を掲げる若者たちと暗躍する清朝のスパイのそれぞれの思惑とやりとりだけでも観る者を飽きさせない。ジャッキーはこの地区に警察署長として赴任し活躍する。

特に印象的なシーンは、返り咲きを狙っている前警察署長の罠にかかって、逮捕され袋詰めにされて川に投げられたジャッキーを助けてくれた革命派の青年と婦人たちとの会話である。正義感から同じ警察内部の人間に殺されかけた彼に革命派の青年が人民を救うため一緒にやらないかという。するとジャッキーは次のように答えるのだ。

「そりゃ、君たちのやろうとしていることは、立派だと思う。」「でも、もし革命になったらどうなる。」

「革命に多少の犠牲はつきものだ。」

「ほらそこだよ、僕は警官だ。警官には市民を守るという義務がある。」「僕は眼の前の一人を見殺しにすることはできない。」

ここには社会主義者と自由主義者の考え方の違いが象徴的に表れている。明らかに、ジャッキーは腐敗を憎み虐げられた人のために良い世の中を作ろうという理想に燃えるこの革命派の青年に好感を持っている。私利私欲のために自分を殺そうとした前署長よりも、もしかすると目指す目標は彼らに近いのかもしれない。

しかしそうでありながらも、その理想のために多少の犠牲は已む無しという道を採ることはできない。おそらく、どんな理想よりも個人を重んじ、その立場から現実を粘り強く改変していく困難な道を自らに課そうとする。これが社会主義と自由主義とが交わるかに見えた寸前で、両者を分かつ神聖なラインなのだ。

この場面を思いだすと、私はシモーヌ・ヴェイユの次の一節を連想せざるを得ない―『カラマーゾフの兄弟』の中のイワンの議論。「この壮大な塔の構築によって今まで見なかったようなどんなにすばらしい光景があらわれるとしても、それがただひとりの子どもにただ一滴の涙を流させずにはあがなえぬものなら、ぼくはおことわりするね。」わたしは、この意見にまったく固執する。ひとりの子どもの一滴の涙をつぐなうにたるものとして、たとえ人がどんな理由をもち出してくるとしても、わたしはこの涙を容認することはできない。知性によって考えつくことのできるかぎりのどんな理由であろうと、絶対に。ただひとつだけの理由を除いて。ただし、それは超自然的な愛によってのみ理解できるものである。すなわち、神のみこころであったということである。(『重力と恩寵』)

私もまたこの意見に深く同意する。所詮人間が考えた大義名分に過ぎない革命や理想に人の命を犠牲にしていい程崇高なものがあるんだろうか。結果として、多くの人命が失われてしまったということは歴史に無数の記録がある。だがそれに対して私はどこまでも個人の生命と人格を守り抜きたいし、それにもっともな理由をつけてくる人間を決して信じないであろう。ひとは自分の命を軽々しく理想のために犠牲にすべきではない。それは他人の命をも軽々しく扱うことにつながりかねないのであるから。かつてスターリンのソ連がそうであったように。

もし仮にこれをヒューマニズム(人道主義)だと笑う人がいれば笑わせておこう。映画の本質はヒューマニズムだ。ジャッキーはそれを華麗なアクションとコメディーによって見事な娯楽作品に作り上げ、私たちを楽しませてくれる。そして、もちろん芸術の本質は人を楽しませることだ。ジャッキー・チェンよ、カンフー映画よ、永遠なれ。

カテゴリー: 映画 | 2件のコメント »

人は戦場で何のために命を賭すべきか

投稿者: akizukiseijin : 10月 28, 2008

もし明日あなたは国のために戦地に赴かねばならないと告げられたら、私ならばどう答えるだろう。きっと何度も逡巡した挙句、次の結論に達するのではないか。何故大義のない戦争で死ななければならないのか。私はその無意味な死を考えると恐ろしい。臆病者と嘲笑い軽蔑もされるだろう。しかし、本当に国家のために戦争で死ぬことだけが正しくまた勇敢なことなのだろうか。私は何かに命を賭けることが惜しいのではない。自分の信じるもののためになら死ぬことも厭わない。では、自分にとって命を賭けるに値するもの、それは一体何であろうか。

イギリスに『四枚の羽根』(A・E・W・メイソン作)という古典的名作がある。この作品は、二〇〇二年にイギリスとアメリカの合作『サハラに舞う羽根』(原題:The Four Feathers)として、六度目の映画化がなされた。監督はシェカール・カプールである。実はこの作品の主題に関して、初めて見たときあまり判然としなかったが、今になってみるととても切実で重要なメッセージを含んでいることに気づかされる。

一八八四年の大英帝国が舞台である。将軍の息子ハリーは、美しい婚約者エスネと親友のジャックをはじめ三人の友人に囲まれていた。陸軍士官である彼らの下にスーダンへの召集令状が下る。まだ見ぬ戦地を思って、武者震いする仲間たち。ただ一人ハリーは、浮かない顔をする。「自分にとって大切なものを犠牲にしてまで、英国の領土を拡大するためだけに、不毛の砂漠を奪いに行く価値はあるのか?」、こう彼は思わずにはいられない。そして、ハリーは一人除隊を決意する。

三人の仲間はハリーを臆病者と罵りその象徴である白い羽根を渡して戦地に向かう。そして、恋人のエスネにも白い羽根を渡されてしまう。ただジャックだけは、ハリーを信じて庇うが、やはり彼の本意は掴めぬまま戦場に向かう。やがて、スーダンの戦況が伝わってくる。次々と告げられる戦死者の名。灼熱の砂漠で、部隊は苦戦を強いられる。そんな中で、かつて「君になら僕の命を託せる」と言ったジャックの言葉が、彼の脳裏を離れない。ハリーは居ても立ってもいられなくなり、現地のアラブ人になりすまし、仲間を助けに向かうのだった。

前線でジャックの連隊は、サハラ砂漠を進軍していた。だが移動中の連隊は無数の反乱軍に包囲されてしまう。反乱軍に紛れて連隊に舞い戻ったハリーの目に飛び込んできたものは、狡猾な反乱軍に翻弄され、大混乱の中で敵や味方の銃弾に倒れる仲間、そして、目を負傷して苦しむジャックの姿だった。ハリーはジャックを助け出した時、落とした手紙からジャックのエスネへの愛を知ることとなる。ハリーは動揺しながらも、ふたたび捕虜として連れ去られた仲間の救出に向かう。

やがて、仲間を収容所から助け出したハリーは、故郷の英国に戻りその勇気を称賛される。一方で、失明し故郷に戻っていたジャックとエスネはすでに婚約していた。ふたたび現れたハリーを前に、かつての恋人エスネは後悔の念に涙を流す。ただ時はもう戻らない、運命だったと諦めるしかないと告げる。そんな時かつての友と再会したジャックは、ハリーに触れたとき自分を助けてくれた男の「正体」を知るのだった。かつて白い羽根を渡された親友は、やはり真の友であり、自分の尊敬できる男だと確信する。そしてエスネとの婚約を破棄するのだった。

確かに国のために死ねるか否かの前には選択の余地は残されていないように見える。人間は個人より大切な共同体のために命を捧げるべきだという主張は道徳的に正しいかのように見える。国のために死ぬことだけが勇気のある行為であり、それ以外は臆病者、非国民であると。しかし、この映画が示唆しているのは、国のためではなく、友のために命を賭ける行為こそ本当に誇りある、高貴な生き様なのではないかというメッセージである。

私はこの文学や映画が英国で長らく愛されてきたという事実に感銘を受けざるを得ない。それは自由を重んじるイギリス人が国民として持つべき「道徳」だけでなく、人間として持つべき「倫理」の存在をも直覚し、心にとどめておこうとしているからである。一人の自由主義者として戦争に立ち向かわねばならなくなった時、私もまたこの映画を思い出すことだろう。

カテゴリー: 映画 | 2件のコメント »

二足のわらじのすゝめ―『釣りバカ日誌』より

投稿者: akizukiseijin : 10月 10, 2008

『釣りバカ日誌』は、山田洋次監督が脚本を手掛け、国民的映画となり、シリーズ化されて現在十九本製作されている。

物語は、釣りバカの浜崎伝助(西田敏行)が、高松から東京の鈴木建設本社へ転勤するところから始まる。そこで彼は、会社の社長鈴木一之助(三国連太郎)とお昼休みに食堂で出会う。お互いのことを知らないまま、「ハマちゃん」「スーさん」と呼び合うまでに意気投合した二人は、次の休みに釣りに行く約束をする。

実際は、「スーさん」は会社の社長で、「ハマちゃん」は社員なのだが、釣り関しては「師弟」の間柄に逆転する。会社にいる間も釣りのことばかりに気が散っているハマちゃん。こんな彼ををしょうがない奴だと言いながら上司や同僚はかばってくれる。やがて、社長のスーさんはハマちゃんと出会って釣りの面白さに魅せられ、いままでと違う自分を見出していく。

このあり得ないユーモラスな物語は、日本の企業戦士たちへのピリッと辛い風刺である。日本では大企業になればなるほど、会社に人生の大部分を捧げる人が多い。また世間でもそのことを美徳とする節がある。だから一人で二足も三足も草鞋(わらじ)を履く人はあまりいない。でも、もしハマちゃんのように会社がすべてではないと思えたらどんなに人生は楽しく思えるだろう。これがこの映画の最大の魅力になっている。

たしかに二足の草鞋を履く人はただの会社人間にはない魅力がある。きっと人生で仕事と遊びを同時に楽しめる人は、仕事の顔と遊びの顔を両方持っているからだろう。つまり、会社に依存せず、自分というものを大切にしているのだ。こうした人は最近若い女性たちの中にも増えてきている。例えば、以前職場で出会った女性に、OL業をしながら子育てするいわゆるシングルマザーが多くいた。その一人とこんな会話を交わしたことがある。

「仕事をめい一杯やってから、子育てをするなんて凄いね。」「二つ仕事を同時にやっているようなものだよね。」

「うん、そうだね。でも、仕事は時間がたつほど疲れが溜っていくだけだけど、育児は大変でも喜びがあるよ。」「いつも早く家へ帰りたいって気持ちになるもん。」

「ああそうか、二つは全然違うんだね。」

本来都会は多くの出会いの場であるはずなのに、一部の男女はそこにおらが村を作りたがる。会社に依存して、自分というものを持たない。だから何でもやれてしまう。それに対して彼女たちのように同時に複数の場に所属している人は、海外では決して珍しくない。趣味や育児やボランティアをしながら、仕事では得られない喜びをそこから得ている。何よりそれは多様な見方を自分の中に養ってくれる。

こうしたライフスタイルを愛する女性がもっと多く現れることを願う。それがタコ壺化した日本を変え、明日の市民社会を築くきっかけとなるだろう。

カテゴリー: 映画 | 2件のコメント »

ランボーはかく語りき―「俺達が国を愛したように、国も俺達を愛して欲しい」

投稿者: akizukiseijin : 8月 22, 2008

愛国心やナショナリズムについて、ポレミカルな議論が巻き起こった時、私がまず思い浮かべるのは有名な映画「ランボー怒りの脱出」の印象的なラストシーンである。

シルベスター・スターローン扮するジョン・ランボーは、ベトナム帰還兵であり、服役中だった。そこへかつての上官が現れ、ある任務を遂行すればここから出してやるという。その仕事とは、ベトナムでアメリカ人の捕虜の有無を調べるために写真を撮ってくることであった。

だが、この任務には裏があったのだ。それはこの任務が純粋に捕虜救出のためではなく、残された捕虜を見殺しにするための形だけの調査であったことだ。そのため合流地点へ捕虜を連れてきたランボーはヘリに置き去りにされるが、最後には敵のヘリを奪って捕虜とともに基地へ帰還する。

彼は作戦指揮官の部屋で銃を乱射し、残りの捕虜を助け出せと言い残して部屋を去る。かくして任務を終えて晴れて自由の身になったランボーにかつての上官がまた一緒にやらないかと声をかける。それに対してランボーはNoと言い、何が望みだと問われるとこう答える―「ベトナムにいった俺達や、腹をぶち抜かれて死んでいった奴らの望みは、俺達が国を愛したように、国も俺達を愛してほしいただそれだけです」。

愛国心やナショナリズムの問題の淵源は、この不等価な交換にある。こちらが愛するようには国はけっして愛してくれない。ましてや、国家のために差し出された死は、本来はどんな交換とも見合うはずはない。それなのに、この国家への無償の自己犠牲という観念はナショナリズムを衝き動かすエロス(生の欲動)でありタナトス(死の欲動)であり続けている。

では、この矛盾に引き裂かれたランボーが最後のラストシーンに込めた本当の気持ちとはどんなものだったろうか。

先日NHKの終戦70周年記念へ向けての街頭インタビューで街ゆく人々に、あなたなら国のために死ねますかという質問を投げかけていた。その時数多の声の中でも次の若者の意見が特に印象的だった―国家のために命を捧げることを要求してくるような国ならば、むしろいっそ滅びたほうがいい<NHK終戦七〇周年記念へ向けての街頭インタビューより>

私はこの発言に安吾の文章を読む時のような突き放された感覚を覚え、同時に多くの真実が含まれていると感じた。この発言を聞いて、今の若者は愛国心がなくなったと嘆くのは早計である。もし国が悪いことをしていても国が生き残るためには手を貸そうというのが人情なら、ここではむしろそんな国なら滅んでしまえばいいと思うまでに国を愛する。あらゆる人情味をはぎ取った非人情なまでの愛国心。

実はこうした心の境地こそランボーの心境そのものなのではあるまいか。だからかれは不正に手を染める国家へ愛と怒りをもって孤独な戦いを演じ続ける。あたかも「正義はなされよ、たとえ世界が滅ぶとしても」というカントの道徳哲学における普遍命題を地で行くかのようである。

たしかにヘーゲルなど様々な人によってカントの普遍命題はその非現実性が指摘されてきた。ただそれゆえにこそ、こうした理念は現実を批判する理想として文学や映画などの芸術の世界で永遠に脈打ち続けるだろう。まさにランボーは永遠の正義のヒーローなのである。

カテゴリー: 映画 | 2件のコメント »

タルコフスキー『サクリファイス』―核戦争の黙示録

投稿者: akizukiseijin : 4月 24, 2008

サクリファイス

サクリファイス

ロシアの映画監督アンドレイ・タルコフスキー監督が、1986年にスウェーデンで撮りあげた遺作。1932年生まれの監督は、この年12月28日にパリで亡くなった。死因は肺ガン。享年54歳だった。タイトルの『サクリファイス』とは、「神への生け贄」や「犠牲」という意味だ。映画の冒頭にダ・ヴィンチの「東方の三賢者の礼拝」が登場し、バッハの「マタイ受難曲」が流れ、物語の導入部に「はじめに言葉ありき」というヨハネによる福音書の冒頭部分が引用されていることからもわかるとおり、この『サクリファイス』の中にはキリストの受難というエピソードが地下水のように流れている。物語はキリスト受難劇を正確になぞるわけではないが、ひとりの男が世界を救うために我が身を犠牲にするという筋立ては同じだ。だがキリストと異なり、この男の犠牲は感謝も評価もされぬまま、精神病の発作として処理されてしまう。

海沿いの小さな家に暮らすアレクサンデルという初老の男が、この映画の主人公だ。高名な役者としての人生を捨て、今は評論家や大学教授として暮らしている無神論者。そんな夫に妻は不満を感じている。夫婦仲はあまりよくない。アレクサンデルの愛情は、つい最近のどの手術をしたばかりの幼い息子だけだ。言葉を発することができない息子に向かい、アレクサンデルは自分の思いを語り続ける。大小の不満はあるが、まずまず穏やかで平和な暮らしだ。だがその日々は、激しい轟音と床に飛び散ったミルクによって寸断される。ミサイル戦争が勃発したのだ。やがて世界は滅びるだろう。電話も電気も不通になる。死の恐怖におびえる家族や友人たち。アレクサンデルは家族を救うため、信じていなかったはずの神にある願い事をするのだが……。

この映画のラストは、少々意地悪だ。アレクサンデルが神に祈り、その願いが聞き入れられたため、彼は約束どおり自分自身を犠牲にする。ところが映画を観ていると、世界破滅というエピソードがはたして現実だったのか、それともアレクサンデルの見た幻影、あるいは夢だったのかが判然としない。滅びてゆく世界はそれまでの映像と異なり、極度に色を制限して描かれ、最後には完全なモノクロームの世界になってしまう。これは映画を観る者に「現実とは違う別の世界」を感じさせる。もしこれが夢だったとしたら、夢の中での出来事の結果として、アレクサンデルは取り返しのつかない犠牲を支払ったことになる。まさに狂気の沙汰だ。彼ははたして救世主なのか?

それともただの狂人なのか? その境界線は曖昧であり、混沌としている。

しかしこの曖昧さや混沌こそが、この映画で描きたかったことなのだろう。そもそもキリストが十字架の死によって全人類の罪を贖ったという信仰だって、信者以外の人間にとっては与太話にすぎない。偉大な行いは、常に狂気すれすれのところにある。

(原題:Offret / Sacrifiacatio)

(転載→ http://www.eiga-kawaraban.com/02/02091003.html)

カテゴリー: 映画 | コメントする »

吾唯足るを知る―山田洋次監督『武士の一分』

投稿者: akizukiseijin : 1月 1, 2008

e6ada6e5a3abe381aee4b880e588861

先日、山田洋次監督の『武士の一分』を観ました。妻を手篭めにされた盲目の侍が、その張本人である上役の侍と果し合いをする場面がクライマックスにあります。盲目の侍は、ついに一刀のもとに相手の片腕を切り落とします。

そこで、お付きの爺に、「止めを刺されますか」と問われます。すると彼は、痛みにうめき叫ぶ相手を前にして、「いや、もう十分だ」と言って立ち去るのです。その後、片腕を切られた相手の上役は、誰にやられたのかを告げることなく、切腹して果てます。

かくして、盲目の侍はお咎めを受けることなく、再び離縁した妻とともに暮らすのです。勝者とともに敗者の側にも「武士の一分」があり、ともに華を持たせようとする山田洋次の美学がここにあります。これは敗れた側を完膚なきまでに叩こうとする今の日本やアメリカの姿となんという違いでしょうか。どちらがより文明的といえるでしょうか。

現代文明は、進歩の長い旅路のどこかで「足るを知る」という生き方を学ばなければならないと思います。それは常に自己を超えた他者の存在を感知することで自らを制御し、同時に新たなるものに開かれている生き方です。

あらゆる商品経済の波が社会を覆い尽くそうとしている今、いたずらに産業化されてはならない生命の根幹に関わる領域があるはずです。例えば、教育、医療、福祉、環境などです。それらを守りつつ発展させ新しい時代のあり方を模索する一人でありたいと願っております。

カテゴリー: 映画 | コメントする »

極端な民主主義の弊害―寅次郎がいなくなった日本

投稿者: akizukiseijin : 10月 31, 2007

男はつらいよ 49巻セット+特典ディスク2枚付

男はつらいよ 49巻セット+特典ディスク2枚付

昭和の名作『男はつらいよ寅次郎』(山田洋次監督)シリーズは、描かれざる最終回があったそうである。それは、寅さん役でお馴染みの渥美清さんが亡くなって結局実現しなかったそうだが、子どもたちがはしゃぎ回っている傍で寅さんがベンチで静かに横たわって動かなくなるというラストシーンであったらしい。

これは現代を予兆する象徴的なシーンなのではないか。昭和の時代は、高度経済成長に入っているとはいえ、まだまだ金持ちや貧しい者もいて、それぞれの町での生活の中から喜怒哀楽の物語が生まれた。その中には寅さんのような変わり者もいて、社会はそれでも彼を排除することなく、温かく受け容れていた。

何より寅次郎は、叩き売りの商売人で、町から町へ気ままに旅するさすらい人である。そして、訪れた土地で美人に恋に落ちて、故郷に帰省し、そうして出逢った人たちに喜びや幸福をもたらして終る。決して自分は幸せを手にしないけれど、またあてどもなく旅に出て行く。私は、毎回映画で最後に寅次郎が妹にそっと置手紙などを残して、ふらりと旅に出かけるシーンがとても好きだ。

ここに描かれているのは次のような社会の姿である。たとえはみ出し者や異端児であったとしても、生きていく余地を残しておいてあげる。そこに人間としての寛容さ・あたたかさを感じるのだ。みんなこいつはしょうがない奴だと言いつつも、愛情のある眼差しを注ぐ。たとえば喧嘩でやっつけても、負けたほうもなかなかやるじゃないかといえるような人間の広さ。そういうものを私たちは失ってしまったのではないだろうか。

それは結局、高度経済成長、特にバブル崩壊以降、経済的な豊かさに裏打ちされて、すべては平等であるべきだという極端な民主主義の病である。実はここには他者の優越を認めないという嫉妬(ルサンチマン)が潜んでいることが分かる。すべては平等なんだから、あいつの意見だって所詮自分以上のものではないと心のどこかで思う。世の中にはやっぱり優れた人がいて、それを認めること、褒めることは決して人間として恥ずかしいことではないのに。むしろ美しいことではないか。そうすればきっと優れた人たちが、この国を良くしよう、何か恩返しをしようという好循環も世の中に生まれてくるはずだ。

イギリスの評論家バジョットは、それを「民主政治」と対比して、「自由政治」として区別している。彼によれば、民主政治は、すべての人はあくまで平等という前提に立ち、そこから誰の意見も自分以上は優れているとは認めないという帰結になりうると考える。それに対して、自由政治とは、他者の優越を認め、優れた他者を尊重するという前提に立ち、良いものは素直に良いと認めることのできる政治であると考える。それは争いの火種を作らない寛容性をもった社会でもある。

私もまた『男はつらいよ寅次郎』をもう一度こうした角度から見直してみたい。そして今の多くの日本人の様にひたすら他人の欠点をあげつらうのではなく、良い所や伸びる所を見つけて褒めていける社会。マイナスの力ではなく、プラスの力で前進していけるような社会を創り上げて生きたいと願っている。

カテゴリー: 映画 | 2件のコメント »

「タクシードライバー」―暴力についての断章

投稿者: akizukiseijin : 9月 3, 2007

1976年、ベトナム戦争が終結し、アメリカは戦後の虚脱感と経済不安に見舞われていた。ベトナム帰還兵は、戦場での暴力の日常性と祖国での市民生活の平穏さに、戸惑いを覚えていた。本作「タクシードライバー」(マーティン・スコセッシ監督)はこうした時代的文脈の中で公開された。海兵隊上がりのタクシードライバーであるトラヴィスの視線から、ニューヨーク大都会で暮らす青年の孤独感と絶望、そして銃による殺人という暴力行為に至るまでの過程が実に生々しく描かれている。

不眠症に悩む青年トラヴィスは、まさに「自意識」に囚われた人間だ。その病的な自意識の肥大には驚くばかりである。大統領候補の選挙事務所に勤めるベッツィーに言い寄るときも、現実の彼女以上のものをそこに見ている。つまり、自己の妄想した彼女をそこに投影しているのだ。二人の関係は、デートにポルノ映画へ誘ったことが彼女を憤慨させ、唐突に終わる。

しかしトラヴィスは、この現実をなかなか受け容れられない。彼女の仕事場に乗り込んで「君もやはり奴らと一緒だったのか」と叫ぶがもはやどうすることもできない。この出来事をきっかけにして、彼と世界との危うい均衡は崩れ始める。世界の醜さを嘆いていた彼は、いまや己の無力感と向き合わなければならない。ただ折れかけた自己にとってこれはあまりに重荷だった。

そこで、彼は自意識の中で、自分にはある使命が課せられているのだと妄想する。それは、自分がこの汚れ切った世界に再び清浄さを取り戻すことである。こう考えることで彼は一瞬自己の重荷から逃れられるからだ。そんな折、以前街で偶然自分のタクシーに逃げ込んできた幼い売春婦、アイリスに再び出逢う。売春宿に入ると彼女がまだ12歳であると知らされる。すると、トラヴィスは、「君を救いに来た。君は騙されている。なぜそれが分からないんだ。」とアイリスに詰問する。「助けてあげる」と叫ぶ彼に、彼女は全くといって良いほど状況が飲み込めない。

当然だろう。彼が話しているのはもはや彼女であって彼女ではないのだから。

自己の無力感という重荷から解き放たれ、ある使命感に突き動かされてからの彼は、肩の荷が下りたように活動的になる。銃を手に入れ、毎日筋力トレーニングに励みまず体を作り直そうとする。彼は自分を生まれ変わらせたいかのようだ。ここでトラヴィスが、銃を手に鏡の中の自分と向き合い、「何が言いたい」と話しかけるシーンが印象的である。もはや彼は自己対話さえ拒絶している。自己ならぬ自己の怪物に自分を譲り渡してしまっているからには。

ここからドラマは佳境に入る。外界を失った人間が最後に行き着く所は、その破壊である。トラヴィスはまずベッツィーがその下で働いている大統領候補パランタインを演説中に暗殺しようとして失敗する。その後、彼は正義の名の下に売春斡旋業者スポーツや用心棒、アイリスの売春相手を立て続けに射殺。その際、自らも負傷してしまう。そして自分を英雄と見なした男トラヴィスは逮捕されるどころか、売春少女を家族に取り戻し、家族から感謝状を受け、世間から英雄視される。

最後に、傷の癒えたトラヴィスがタクシードライバーに復帰するシーンがある。するとこそにかつて憧れていたベッツィーが乗り込んでくる。「新聞で読んだわ。怪我の具合はどう?」と尋ねる彼女に、彼は笑みをこぼす。まだ何か言いたげな彼女を残して、タクシーは夜の街を滑っていく。こうして彼女から傷つけられた自尊心は、世間から勝ち得た賞賛によって埋め合わされた。映画はバックミラーを覗き込む彼の姿で幕を閉じる。

このラストシーンは、都市における暴力の遍在のメタファーである。暴力は突如あらわれ、また日常へ回帰していく。暴力とは対話を拒絶することから生まれ、最終的には自己との対話をも拒絶することである。それは無力な自己からの逃避であり、情熱に駆られて自己ならぬものに自己を託すことである。しかし外界からの遮断は自己を救うことにはならない。もし外界のすべてを破壊し尽くすか、あるいは自殺するのでない限りは。トラヴィスのタクシーはいまもニューヨークの街を廻っている。

カテゴリー: 映画 | コメントする »

「イージー・ライダー」とアメリカ―二つの自由精神

投稿者: akizukiseijin : 8月 29, 2007

イージー・ライダー

イージー・ライダー

アメリカの魂を、良心を求めた男たちの生き様を鮮烈に描いたアメリカン・ニュー・シネマの代表作

メキシコから密輸したマリファナで大金を得たキャプテン・アメリカとビリーは、チョッパーの大型バイクに乗ってロサンゼルスを出発、当てのない旅に出る。

2人が求めるのは「自由」。だが、彼らの長髪にヒッピースタイルという姿を、全ての人々が認めているわけではなかった。

行く先々のモーテルで宿泊を断られ、野宿を強いられる日々。ラスベガスでは「無許可のデモを行っている。」と理不尽な言い掛かりをつけられ、留置場に入れられてしまう。だが、たまたま居合わせた酔っ払いのチンピラ弁護士ジョージ・ハンセンに助けられ、3人はニューオリンズを目指して一緒に旅をすることになる。

途中、ハンセンは2人に「自由を説くことと、自由であることは違う。誰もが自由を語るが、自由な人間を見ることが怖いんだ。」と語り、彼らは絆を深めていく。

しかし、彼らの存在を快く思わない保守的な連中に寝込みを襲われ、ハンセンは殴り殺されてしまう。キャプテン・アメリカとビリーは、ハンセンに連れて行ってもらうはずだった売春宿を目指し旅を続けるが、更なる悲劇が2人を待ち構えていた・・・。(AXN) http://www.axn.co.jp/movie/easyrider.html

序論

私は、アメリカには絶えず二つの「自由」が交わることなく、社会の表層と深層に分離して存在していると感じてきた。例えば、州の自治権を主張する「共和主義」と連邦政府の権限の拡大を求める「連邦主義」の長い対立の歴史がある。そして、南北戦争に至った南部の封建主義と北部の資本主義との対立がある。どちらも各々の「自由」を主張したが、その内実は決して同じものではなかった。

アメリカの国民的詩人ウォルト・ホイットマンもまた、代表作『草の葉』の序文の中で、アメリカの民衆の中に揺ぎ無い民主主義の理想をうたう。しかしあらゆる抑圧に反対する立場から南部の奴隷制の廃止を支持したものの、彼にとって南北戦争の勝者である北部の支配は別の形の抑圧に他ならなかった。

第1部

ベトナム反戦や学生運動が激しかった1969年にアメリカである映画が封切られた。この映画の名は「イージー・ライダー」(easy rider)である。内容は冒頭にあるとおりだが、ここにはアメリカの二つの自由精神の葛藤が見事に描き出されている。キャプテン・アメリカとビリーと一緒に旅に同行したハンセンらは、先々で宿泊を拒否され仕方なく野宿することになる。その時、アメリカの「自由」についてハンセンは印象深い台詞を述べている。それは次のようなものである。

「(人々は)君らを怖がっているんじゃないよ。」

「君らが象徴しているものを怖がっているんだよ。」

「奴らは俺たちを散髪の必要な人間としか見てねんさ。」

「君たちが象徴しているものは「自由」だよ。」

「自由のどこがいけないんだ。結構なことじゃねぇか。」

「確かにそうだが、自由にも二通りある。」

「君らの言う自由と奴らのいう自由とは似て非なるものだ。」

「彼らは自由というものをマーケットでものを買うように買うわけにいかないことをよく知っているんだよ。」

「でも冗談にも、奴らが自由じゃないなんて言っちゃだめだよ。」

「そんなことを言ったら、みんなは人殺しをしてでも自分達が自由だってことを証明しようとするだろう。」

「なるほどみんな「個人の自由」とかについてよくしゃべるよ。」

「しゃべるのはそら楽だからね。でも口先だけだよ。」

「違う自由がそこに現れると怖くてしょうがないんだ。」

「怖がってるって顔じゃない。」

「そう、かえって凶暴になるんだよ。」

このシーンは後の悲劇を予兆するかのようである。その直後、ハンセンはこの土地の住人に殴り殺され、他の二人も住民に射殺されて観る者を突き放すようにしてドラマは幕を閉じる。日本でも60年代の安保や学生運動に加わった世代なら、運動の挫折が政府の弾圧と大人たちの無理解からくる疎外感にあったことなどが思い起されるかもしれない。

いずれにしても私がここから読み取りたいのは、60年代に保守的な南部の農村や北部の資本家やビジネスマンが自分たちの体制の枠組みの中での「自由」を擁護するのに対して、若者たちのそれこそアナーキーな「自由」がマグマのように渦巻いて既成の秩序を乗り越えようとしていたことである。

第2部

日本でも60年代の安保や学生運動が沈静化し、資本主義的且つビジネスライクな生き方に批判的な左翼や学生セクトが崩壊した。さらに90年代になると冷戦も終結し、アメリカ的な自由競争、市場万能主義、いわゆる新自由主義が政府やメディアで支配的となった。こうした一連の流れの中で若者は右翼化し、朝日・岩波といったかつての左翼の権威的メディアを激しく批判している。まさしく日本では、雪崩れの如く押し寄せるアメリカ=資本主義に対して、それを支持する若者とこれを阻止しようとする官僚やマス・メディア側とのせめぎ合いが続いている。

しかし、ここにはある遠近法的な倒錯が存在している。なぜならアメリカは必ずしもイコール資本主義ではない。かつてと同様に流入する移民がコミュニティーを形成し、モザイク的な社会構成をなしている。さらに重要なことに、この国には党を持った共産主義者は少ないとしても、60年代の学生闘争の忘れ形見とも言えるリバタリアン/アナーキストの群が生息している。1999年のWTO(世界貿易機関)会議に反対したシアトルの反グローバリゼーション・デモはその潜在勢力が自らの存在を顕在化したほんの一例である。

第3部

では「リバタリアニズム」(自由至上主義)とは一体何を指すのであろうか。これに関してアメリカにおいても誤解があるようだが、日本でも例外ではない。一般にそれは右翼的で資本主義賛美の思想と見なされている。しかし代表的論客である経済学者ハイエクを見れば分かるように、それはむしろヨーロッパ大陸の社会思想の伝統でいえば、「初期社会主義」や「ユートピア社会主義」の思想である。ハイエクにとって、いまの資本制経済の下では個人の「自由」は、不十分にしか守られていない。したがって、彼はあらゆる規制を撤廃し、人々が自発的にルールを作るのに任せる、いわゆる「自生的秩序」を提唱した。彼もまたマルクスとは異なる形ではあれ、資本主義を超える社会を志向していたのである。この批判の契機が見失われれば思想は思想でなくなってしまう。

こうしたリバタリアン的水脈は、60年代70年代のアメリカのコンピューター産業の黎明期、東部エスタブリッシュメントの雄IBMに挑んだ西の雄シリコンバレーのインテル社やアップル社、そして現在で言えばマイクロソフトに対抗するGoogleなどの中にも見出すことができる。自らのアイディアを形にし、仲間に認められることを何よりの喜びとするエンジニアやプログラマーは時にビジネス一辺倒の経営に反発する。そこで彼らは会社を辞め、ベンチャーキャピタルの力を借りて自分たちの事業をゼロから立ち上げる。こうした循環がシリコンバレーでは繰り返されてきた。その意味で、シリコンバレーの精神は、資本主義的というより、「脱資本主義的」(trans-capitalist)なものであるといえる。もちろん着地点はビジネスであるが、同時にそれを超えようとする意志に突き動かされてもいるのである。

結論

ここまで私は、アメリカ建国以来の二つの自由の系譜―権威的自由と民主的自由―が60年代から今日まで脈々と受け継がれ、社会の表面に突如として革命的運動や起業家精神として現れることを素描してきた。社会的通念とは異なり、アメリカの資本主義を支えているのは、個人の独創性を信じ、より良い社会やコミュニティーを自らの手で築き上げていこうとする脱資本主義的な力なのである。その点で、彼らが理想とするウェブ上のオープンな空間は、「サイバーコミュニズム」(電脳共産主義)とすら呼び得るものである。

アメリカでは80年代にコミュニティーが加速度的に崩壊し、その隙間をインターネットがどのように埋めるのかが重要な課題となっている。日本でも90年代から2000年以降、会社共同体や地域や家族は否応なしに薙ぎ倒されている。私たちは帰属するコミュニティーの喪失と引き換えに自由を手にした。さらに手にした自由はGoogleという名のシステムに一極支配されたサイバースペース(電脳空間)である。テクノロジーは確かに人々を解放するが、同時にある種の専制へ道を拓きもする。

したがって、我々が認識すべきは、いずれかの自由がより優れているかではなく、ましてやアメリカを賛美することでもない。アメリカは絶えずこの二つの自由に引き裂かれているということ。そして世界でも稀なリーダーなき民衆の国として誕生したアメリカほどこうした矛盾が社会に亀裂をもたらす場所はないと知ることである。今後、環境、エネルギー、テロとの戦争、ITなどを通してその矛盾は、二一世紀の世界全体を巻き込む恐れがある。このエッセイは我々が明日を生き延びるための唯一の航海図として書かれたのである。

参考文献

■リバタリアン社会主義(アナキズムFAQ):http://www.ne.jp/asahi/anarchy/anarchy/faq/faqi1.html

■池田信夫ドット・コミュニズム:http://hotwired.goo.ne.jp/bitliteracy/ikeda/020925/

カテゴリー: 映画 | 9件のコメント »